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2006年06月23日

極真会館大山倍達と劇画界の首領・梶原一騎の義兄弟神話の崩壊 (噂の真相 81年5月号)

レポーター 池田草兵



極真会館スキャンダル第三弾!


 本誌一月号、二月号で連続掲載した「添野逮捕で明るみに出た極真会館の大スキャンダル」は様々な反響を呼んだ。おそらく、極真会館につきまとう恐怖のイメージがマスコミ関係者に浸透しているため、"さわらぬ神にたたりなし。といった自主規制意識が働いた結果、マスコミタブーとなっていたためであろう。本誌発売後、各方面のマスコミが取材に動き始めたのも事実である。しかし、いずこも途中で企画を中止、活字としては日の目を見なかったのである。極真会館に恐れをなしたのか、一部マスコミではコワモテとして知られる劇画界の首領(ドン)・梶原一騎への"遠慮"なのか定かではないが、ある種タブーの空気が編集者たちの歯止めになったことだけは確かだろう。
 それと同時に梶原一騎の『空手バカ一代記』に象徴される極真神話の内実があまりにも生々しく、スキャンダラスであったこととも無関係ではあるまい。
 その後、極真会館サイドからは、郷田師範、盧山師範、西野熊谷分支部長、西浦和分支部長、久米事務局長、"極真応援団"平岡正明といった面々が入れかわり立ちかわり抗議にやってきた。結局、前回の取材で拒否の意志表示をしていた大山館長が三日にわたる長時間インタビューに応じてくれた。筆者としては、前回の特集は、大山館長の取材拒否にあったため、やむなく、極真を除名されたり、去っていった人物、極真に近い第三者の取材で構成せざるを得なかったが、今回は、双方の主張を盛り込んで、より"真相"に近いレポートとしてアタックすることができた。


梶原一騎と大山館長の確執

"あらゆる犯罪は革命的である"という平岡正明の言葉を借りるならば、"あらゆるスキャンダルは革命的である"。クサいものにフタの精神では、世界にはばたく極真も先が見えている。当レポートは、あくまでも極真の組織活性化のプロセスへの布石となれば、の思いをこめてお届けする。
 今日ある、極真会館及び大山館長の伝説は、マスコミが大きく関与してきたからである。
 マスコミの協力と援護射撃がなければ、いかに優れた空手流派であっても町道場の域から抜け出すことは不可能である。その意味でイの一番に登場する極真会館の大功労者は、劇画界の首領(ドン)梶原一騎(劇作家)であることは誰しも認めるところだ。空手ブームを日本中に巻き起こした劇画『空手バカ一代』が極真会館に大きく貢献したからである。
 梶原と空手界の首領(ドン)・大山倍達(極真会館館長)との仲は、友情を超えたところに存在する「義兄弟」という名の契りで緒ばれている。それは、二十年間の長き交友関係で自然と誕生したキズナであると思われる。
 だが、最近になって大山館長と梶原の仲が急に冷え始めて反目するようになってきたのである。二人の間を知る関係者の殆どが「一年に一回は定期的なケンカで、年中行事である。今回の反目も元の鞘に納まり近い将来解決するのでは」と見るのは、おそらく両者の関係には第三者には知りようのない根の深い事情が絡み付いているためであろうが、そう簡単に仲直りするといえるかは疑問である。 ここに某関係者スジから入手した極秘資料の中に、梶原と大山館長の不仲を証明する二人の間で取り交わされた内容証明がある。日付は昭和五六年二月二一日で、梶原の秘書室長川島茂が大山館長に発送した内容証明である。少し長いが全文を載せる。二人の確執が赤裸々に伝わるはずである。
《貴下は梶原一騎・黒崎健時、両氏をはじめとする、物心両面にわたる援助、協力によって今日の地位を得たにもかかわらず、昭和五五年二月二七日、蔵前国技館にて行われた、アントニオ猪木、ウィリーウィリアムス戦に際し、その興業収益金の分配をめぐり、貴下には当然その権利がないものと判断した。同興業プロモーター黒崎健時らに対し、元極真会館埼玉支部長添野義二の証言によれば、その判断を不満とした貴下は「もし、ウィリーウィリアムスがアントニオ猪木に敗北するような事態が生じた場合、極真会の信用にかかわる」との貴下自身の判断に基づき、同興業の主たる関係者である、
 元極真会館師範代現新格闘術黒崎道場主 黒崎健時、
 元極真会館審議委員長 作家梶原一騎、
 新日本プロレス(株)代表取締役 アントニオ猪木、
 同マネージャー 新間寿
の殺害を極真会館埼玉支部長添野義二ほかに下命し、これに同調した約二十名の門下生と共に添野らは同試合会場内を徘徊した、この間貴下は支部視察と称し、渡米し現地から国際電話により、添野に対し前記下命事項を伝達続行した。
 幸いにも同試合は、両者引分けに終ったものの、もし猪木が勝利を治めるような事態が生じたならば同試合の主たる関係者である黒崎健時、梶原一騎、アントニオ猪木、新間寿に対する貴下の殺害命令は推行未遂、もしくは推行されたであろう。その事は試合当日貴下の下命に従った添野の新間寿マネージャーに対する膝蹴りによる暴行の事実(全治一週間)からも充分見分できる。
 この暴行の現場に多数の報遺関係者等がおり、その事実の一切を関係当局に訴えるべきだ、との声があったが新間は格闘枝の将来を考えこの事件を不問にした。
 帰京後の貴下は、同試合内容、及び新間のダメージが少なかった点を大いに不満とし、後にこの件に関する実行行為者である、当時極真会館埼玉支部長添野義二に対し喝責し、責任を感じた添野は自暴自棄となり、暴行恐喝行為を行い、この事態をいち早く知った貴下は、添野逮捕を予測し極真会館の体面維持のため破門処分とした。
 昭和五三年五月頃、埼玉支部吉川某、北海道支部長高木某などを梶原の許え拳銃携帯で送りこむ如きは言語道断である。
 高木某は同じく貴下の教唆にて愛媛支都長芦原英幸殺害の目的で同人の居住地である愛媛県松山におくり、同人に面会を求めたところ貴下の教唆によるものと自白しその罪の一切を認めた。同自白の一切をテープに収録し証拠として必要の時期まで芦原の手許に保管し、いつでも関係当局に証拠品として提出の用意がある。
 尚、梶原主宰の三共映画(株)から一億円もの大金を映画撮影権利金として受領しながら、その条件である数回の海外出張協力に僅か一度のみしかロケ隊と同行せず、その他クライマックス世界大会運営上の公開を憚る理由も重なり当映画『最強最後のカラテ』は無残な失敗に終った。
 現在まで良識ある我々は、貴下自身及び、貴下の関連したすべての違法行為(北海道におけるハレンチ行為)に対し、極真会館の将来を考慮し、不問にしていたが、現在に至り貴下の一連の行為に対し、誠意ある謝罪を求めるものであり、万一それが実施されない場合、我々はあくまでも、公正な立場から全マスコミをはじめ、あらゆる関係当局に、この事実を公開するとともに、必要手続を行う考えでいる。
 最後に小生も昨年までSPとし警視庁に奉職し、実兄は現在本庁警部の要職にある事を付記しておく。
  昭和五六年二月二十日
 大山倍達殿
 附紀
 尚貴殿は最近、梶原一騎氏の実弟、真樹日佐夫(本名高森真土)氏を特攻隊と称する門下生一〇名を組織して大怪我をさせよと担わせ、弟思いのある梶原氏の追求を封ぜんと企んだ旨を、現在極真会館、本部道場生の真樹氏の後輩が名を称して真樹氏の母親の元え身辺の要心してほしいと電話連絡が入っている事実がある。
 尚この事実は、元愛媛支部長芦原英幸氏、又元埼玉支部長添野義二氏の両名の元えも本部に残る後輩から連絡が入っている旨を附記しておく》(以上が原文のまま)
 かなり誤字が多いが、梶原の大山館長に対する怒りが窺える内容証明である。
 これに対し極真会館側は、樋口都久二事務局員を通し梶原に内容証明で返答している。


梶原文書に対する極真側の態度

《拝復 昭和五六年二月二一日付、貴殿よりの「内容証明」の内容につきお答えいたします。
 先ず当会館の今日の発展が、梶原先生並びに無数の支持者による御助勢と同時に、極真カラテ創始者大山倍達館長のそれを上まわる血と汗と涙の精神の賜物であることは、万人の認めるところと信じます。
 また大山館長が、常日頃梶原先生に対し十数年前から現在に致るまで、一部下々の無責任な噂はいざ知らず万年一日の如く、その友情と尊敬の真情を抱いていることは十分に御承知おき頂く必要があります。
 総じて右の「内容証明」文中の御指摘の事項は、失礼な表現をお許し願えるのであれば荒唐無稽なる類であり、本来は無視することも許されるものと思われるのでありますが「礼節と信義」を尊ぶ極真精神に則り、御返信差し上げる次第であります。
 尚この間、右の「内容証明」を発せられるような貴殿の誤解を生んでいるものがあるとすれば、それは何等かの虚偽情報が作為的に貴殿に提供され、大山館長と梶原先生、真樹氏の間に離間を図るべくその信頼関係をことさらに破壊しようと試みたものと言わねばなりません。このことは時間の経過をもって証明されるでありましょう。
 《ウィリー、猪木に関する御指摘について》
 大山館長はこの件に関し全く関係しておりません。梶原先生のご存知の通りであります。
 《添野恐喝事件に関する御指摘について》
 当件は誠に残念な事柄であり、大山館長は師弟の間柄であるだけに大いに困惑していることを率直に申し上げたいと思います。
 《高木某、吉川某による殺人教唆云々との御指摘について》
 当件は全くあづかり知らぬものであり、理解に苦しむところがあります。
 《海外ロケに関する御指摘について》
 大山館長は撮影に支障無きよう自ら海外支部に赴くばかりでなく、行くことの出来ない所に対しては国際電話を通じて、再三再四撮影協力に対する指示をしております。撮影進行に対し何等の支障も無かったことは梶原先生の良く知るところであります。
 《特に黒崎健時氏につき述べられた点について》
 下々に大山館長と黒崎先生の不仲を云々する者があるようですが、大山館長は同氏とは三十数年来の弟子であり、かつ良き友人であり、折に触れてその武勇や人柄を紹介し、その都度「彼については一緒に居なくとも逢わなくとも、その心情と言動はハッキリとわかる」と明言され、その友情と尊敬の念の不変であることを吐露し続けていることをお伝えしたいと思います。
 《特に梶原先生につき述べられた点について》
 大山館長はこれまで、名文が立つ申し出についてただの一度も拒否したことは無く、約束した事柄は必ず守り実行してきました。このことは大山館長が「友清とは斯くあるもの」と誇りにしているところであります。梶原先生も同じ御心情であらせられるものと確信するところであります。
 よって梶原先生街自身或は真樹氏、親愛する御母堂に対し、殺害云々があろう筈がありません。
 以上、貴殿からの「内容証明」に対し事務局に於いて応答するべき責があるものと考えますので回答を準備いたしました。敬具
 昭和五六年二月二六日
 川島茂殿》(原文のママ)
 この内容証明をみる限り梶原が肩スカシを食わされた格好となっている。梶原と大山館長の内容証明は、代理人の秘書同士によって行なわれたものだが、二人の不仲を決定的に物語るものといえよう。


梶原との離反は極真内部からも要請が

 極真会館の伝説は、梶原がマスコミでイメージを定着させて神話化した。それは大山館長だけでなく誰しもが認めることである。
 その伝説をつくってきた当の二人の関係が決定的に破産するような周囲の動きもある。
 極真会館春季全国支部長会議が二月に開催され、全支部長(約三十名)は、梶原と真樹師範の両名は、極真会館にとって不必要であるといった内容の決議文を、全支部長の名を連記して作成したのである。某支部長は「梶原先生の大功労は認めるが、いまや極真会館のガンだ」と語気強く不満を語る。盧山支部長も「梶原氏と縁を切るという方向で支部長会議は進んでいる。その意味で館長はつき上げられている。問題は切り方です。後を残さないように切ることです」という。
 現在、全支部長の決議文は大山館長の手元にあるらしく最後の決定を踏みとどまっている段階と思われる。大山館長は「人間別れ際が大切だ。キレイに別れるためには時間が必要」といい、梶原について「あくまで我慢するところまで我慢する」と語る。
 だが支部長の殆どが梶原を嫌がっているのは事実であるようだ。それは極真会館の伝説を創りだした劇画『空手バカ一代』の連載に問題の原因もあるものと思われるのである。
 大山館長は『空手バカ一代』の連載中に「梶原先生は、極真会館の審議委員長だから全支部長を万遍なく載せてくれ」と頼んだが、見解の相違から問題が起きたというのである。梶原は「彼(大山館長)の言う万遍なく載せてジェラシーを起こさないでやって下さいというのも一理ある。だが力のない支部長は載せられない。有能な青年空手家の添野、芦原、大山茂といった自他共に認められる人たちを出してこそ話になる」と作家としての立場を主張する。元極真会館某支部長は「千葉の小嶋幸男支部長は、道場開きのときの演舞で角材割りをやったが、自分の肋骨を折って救急車で運ばれ入院したエピソードがある」と証言するように、実際は劇画の主人公にはふさわしくない支部長が数名いるのも事実である。
「問題はここから生まれた」と言って大山館長は、一冊の本を机の上に置いた。『わが空手日々研鑚』(講談杜)とタイトルのついた大山倍達著の単行本である。このなかに「梶原君」と書いてあったことに「梶原は激怒した」というのである。『日々研鑚』の担当編集者風呂中斉は、極真会館の評議委員も兼ねている人物である。講談杜では、『日々研鑚』、『一〇〇万人の空手』、『わが空手五輪書』『私の空手道人生』『極真会館世界を征く』(写真集)、『一撃必殺空手いのち』『マス大山空手百科事典』(近刊)など大山倍達著(極真会館編)が出版されている。
 風呂中は「大山空手には興味があったが講談社で取り扱う人物(大山館長)であるかどうか迷った。ところが『少年マガジン』で『空手バカ一代』が連載されて社(講談社)も認めたということになって、最初に『空手道人生』という本ができた」と『空手バカ一代』の実績があればこそ大山倍達著の本も出版されたといきさつを語る。が、極真会館側は『空手バカ一代』が始まる数年前に『一〇〇万人の空手』は出版されたと主張する。
 問題が起きた『日々研鑚』の「梶原君」事件について風呂中には「これは誰が書いたという問い合わせが梶原氏からあってからおかしくなった」という「それで、どしゃ降りの雨の中、夜中の二時から、五時にかけて十数回も電話があって、梶原氏が女房に私を叩き起こせといわれた。これは常識を疑う行為である」と語る。結局、「梶原君」と表現した部分は削除された。関係者の証言によると「内
容があまりにもいいのでヤキモチを焼いたのでは……」と抗議は梶原の嫉妬であると分析する。


極真の変貌と添野切りの狙い

 昭和五三年三月十日付で梶原は財団法人極真奨学会の理事と極真会館の審議委員長を辞任した。その後に、梶原が『空手バカ一代』連載前から交際しかわいがっていた有能空手家の芦原師範と添野師範が、昭和五五年九月八日付で極真会館から除名された(本誌一・二月号で詳述)。梶原は「俺が審議委員長なら除名など絶対にさせない、いまは顧問だから……」と語気強く残念がる。
 だが極真会館の支部長たちの一部は梶原が認める添野師範と芦原師範の二人を恐れ嫌がっていたのも事実である。盧山埼玉支部長は「添野は日本の北半分をもらったと言い、地図を広げて何々県は俺のものだとか勝手に決める。その支部長は、たまったものではありませんよ。芦原は西を制覇するとか言っていた。この二人には、他の支部長たちにとっては恐怖を感じる存在でした」と除名になった両師範について語る。一方、この度の事件で懲役三年、執行猶予四年の判決が出た添野師範(現新格闘術士道館主席師範)は「何を恐れ嫌がる必要がある。男なら堂々としていればいい。武道家として自信があるのなら受けて立つべきだ。本気で他の支部を制覇することはできないと知っているはずだ。だが、いまは"士遺館"という名で全国制覇する。それは極真会館の師範ではできないことであった」と再出発について語る。そして、日本格闘術連盟の会長である梶原は当然新格闘術士道館を支援しているのである。
 添野師範の再出発について「士道館」の荒井広事務局長は「北海道に城西大学と立正大学の両空手部OBによる所属道場と新潟、伊豆大島にも同道場を発足させた。現在日本全国に十数ケ所の士道館所属道場が誕生している。この中でも川越の二百坪の道場は三月二一日に完成した。また秩父に二千坪の総本部道場が六月一四日に道場開きをする予定である。事件後多くの後援者によって、この様に励まされている。また五月二日に、ホテル・グランドパレスで発足会。五月三十日には後楽園ホールで新格闘術世界チャンピオン藤原敏男、斉藤京二、内藤武士、紅斗志也他の格闘士らによって士道館の発会試合が行なわれる。藤原は"六ヶ月ぶりのリングで腕がうずいている"」と語っているそうである。ともあれ、"邪道空手""ケンカ空手"として攻撃的な魅力で売りだした極真会館は、格調高い理念のある空手を目指し変貌しつつあるようだ。それは、極真空手が単に強い空手だけでなく思想を持ちはじめ、三大流派の一つとして本流の道を歩きだしたものといえる。
「本流になることによって、攻撃的な空手家(添野、芦原両師範)が排除され、不必要になったのでは…。いまの極真空手は守りの空手であると思う」と格闘技評論家の一人が語るように、極真会館の伝説にある恐怖的な強さのイメージは消えつつある。いまや"紳士的"な武道家ばかりが極真に多く残っているのが何よりの証拠であると語る人たちもいる。ここに、前回のレポートで書いた極真の添野師範追放の真意な見てとることもできよう。
 大山館長自身も「極真会館は曲り角に来ている」と現状を認める。これは時代の流れによるものでもあろう、戦後の動乱期に、大山空手は誕生した。そして高度経済成長時代に極真会館は、梶原の手によってさらに伝説化された。
 大山館長は「全支部長及び極真会を支持してくれる数多くの人たちの力で、過渡期を乗り超えられる」と自信を持って語る。だが極真空手の今後の課題は決して容易ではないと筆者はみる。


毎日が報じた脱税事件の舞台裏

 二月一八日、毎日新聞の社会面に「極真会館一億一千万円の脱税で摘発」という記事が大きく載った。大山館長が経営する「マス・大山エンタープライズ」が東京国税局に所得隠しで摘発されたという事件である。この「マス・大山エンタープライズ」の監査役に俳優の藤巻潤(本名藤巻公義)がいる。大山館長の二人目の夫人・昭子さん(元ミス東京)の弟なのである。このマス・大山エンタープライズは、昭和五一年六月二九日に設立された。極真会館関係の興行やテレビ、会員への空手着などを販売する極真会館の翼下にある有限会社である。この一億一千万の脱税のうち一億円は、梶原が経営する三協映画(株)ら映画『最強最後の空手』の撮影協力金として五千万円の手形二枚で支払われたもの。この際大山館長は「映画製作に全面協力し、協力料として一億円を受領する。協力が期待するものでなかった場合は返済する」という趣旨の念書を書いている。大山館長は「映画が不振の場合、半分の五千万は梶原氏に返すつもりでいた」と語るが、国税局側は、三協映画が『最強最後の空手』製作の原価に計上されているので、借入金に根拠なしと判断した。大山館長は「あれは脱税ではないよ。第二回世界大会のとき映画『最強撮後の空手』を撮影することになった。そのとき世界大会の協力金として一億五千万円くれと言った。梶原先生は、一億五千万円を東映で借りてくるので、五千万円は(撮影)経費で使用して、一億円を世界大会の費用にしようと言った」と脱脱について否定するが、実際は仮装隠ぺいによる脱税にかけられ重加算税の対象となり、法人税本税と合わせて二千三百万円が追徴されたのであった。
 一方、梶原側は「大山(館長)が一億円を借りていると言っているが、本当なら税務署の立合いのもとで返済しろといいたい。借入金なら俺のところに借用書がなくてはいけない。それが領収書があるんだから。税務所が入るということは、警察が入るということのジャブなんだよ、フェイントなんだよ」と語気を強める。この脱税問題だけではなく、あらゆるところで、梶原と大山館長の両者は食い違いがある。
 梶原は「映画の撮影のときアントニオ猪木は、最高に協力してくれるが、金は一円も請求しない。大山(館長)は見習うべきだ」と金より宣伝効果が大切であると語るいまや梶原と大山館長の両者は、まったく油と水である。


マス・大山カラテスクールにも火種が……

 最近極真会館には、昭和四九年十一月一日付で梶原プロダクションに譲渡されているマス・大山空手スクールの問い合わせ電話が殺到しているという。電話の内容は「通信教育を受けるためにお金を支払って十四日以上過ぎているのに連絡もない」というもので一カ月に、五十件位になるという。
 大山館長は「金だけ受け取って品物を送らない。毎日こんな電話で休まる暇がない。校長は名だけで関係ないとはいえない。当然責任もある。これから弁護士と相談して辞任する方向にいきたい」と語る。
 マス・大山カラテスクールは、極真会館で赤字経営だったために梶原プロに七千万で譲渡したものである。その目的は、極真会館が主催する第二回世界大会の資金蓄積にあったといわれている。この赤字で存在していた、マス・大山カラテスクールは、真樹師範の必死の努力で再生させて、いまは成功しているという。だが金銭問題になると梶原と大山館長の意見が食い違うのである。梶原側は「七千万円払った」と言い、大山館長側は「第一回世界大会のときに、三干万円を梶原先生から借りた。そして二千万円を寄贈してくれた。全部で五千万円です」という。そして「譲渡契約にあるパーセンテージは、最初の頃は貰っていたが、いまは貰っていない。給料も最初十万円貰っていたが、ここ、二〜三年は給料はありません」と大山館長は語る。
 梶原は「大山(館長)は、俺のお陰で二億円近く儲けている。マス・大山カラテスクールを譲渡したときに、空手着の販売権はこっちにあった。それをマス・大山エンタープライズなんて会杜設立して販売する。これは違約だよ。『カラテ・マガジン』を売った後に『パワー空手』を出版する。細かく言えば、みんな約束違反だ」という。梶原と大山館長の両者は、まったく相反するといった言い分がなされているのである。
 こうした事情を踏まえて極真会館側は次なるマスコミ対策の布石として、梶原の残した遺産のなかからいくつかマスコミ人脈を開発しはじめているようである。極真会館の陰には、常にマスコミと密着作戦があるようだ。マスコミを利用して大きくなった組織の宿命なのでおろう。大山館長の本を手掛ける出版社の数は十数社。発行された大山倍達著作の単行本は、これまで三十数種類に及ぶ数にのぼっている。一方マスコミ関係者の間では、大山館長支持派と反支持派(梶原派)に分裂しつつあるといわれている。
 マスコミによって大きくなり、神話化されてきた極真会館、そして大山館長は、いま、避けられない試練の渦中にあることは確かなようだ。極真会館の館長室に飾られた、梶原、大山両人が仲よく並んでいる写真の撤去も時間の問題というそうである。〈敬称略〉
〈取材協力・本橋信宏〉
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2006年06月22日

四天王・添野師範逮捕で明るみに出た極真会館の大スキャンダル(後編) (噂の真相 81年2月号)

レポーター 池田草兵(ルポライター)



ウィリー・三瓶戦八百長の証言

 ウィリー・ウィリアムスは強い。
 極真会館ではナンバー・ワンであった。他の空手の流派をあわせても超一流の強さを誇る武道家である。地上最強の空手家である。
 ウィリーは国際空手道連盟(極真会館)が主催する「第二回世界大会」の会場(武道館)に於て、八百長試合で反則負けになる自分の運命に怒りが爆発した。
 両手を高々と上げて叫んだ声は、地の底から天井まで響きわたったが、言葉にはならなかった。「わざと反則負けになったんだ、俺が正々堂々と勝負をすればチャンピオンなんだ」とウィリーは言葉にして叫びたかったに違いない。もし、ウィリーが八百長試合だといってしまったら極真会館のイメージ・ダウンは当然としても存在すら危険な状態になるだろう。それは極真会館という流派は強さのみ追求してきた組織であるからだ。にもかかわらず裏にまわって八百長の数々をやっていたとなれば、真の武道家はいなくなるのも当然のことである。ウィリー自身、武道家としての誇りまで失なわれてしまうのである。言葉のかわりに"ウオー"と叫んだのは、自分の運命(強さ)を憎んで誇りを捨てなかった戦士の姿がそこにあったのではないだろうか。
 この八百長試合の真相は、極真会館館長大山倍達氏がウィリーの師であるニューヨーク支部長の大山茂師範に"黒い指令"を出したのである。大山師範は館長命令には逆らえず従わざるを得なかった。なんとかウィリーを納得させて試合に出場させたのである。一方大山館長は、試合会場に於て主審の添野師範を呼び付けて同じ指令を出して完全な八百長試合を成立させたのである。
 試合開始直後からウィリーは三瓶(選手)の襟を掴んだのである。そして、結局、添野主審は両名を引き離して"反則"を宣言したのである。この試合の会場で、高い入場料を払って見ていた多くの観客は「不可解だ」と思ったに違いない。目の肥えた人たちは「八百長」であると言い切っていたし、視聴者の誰の目にも不可思議な試合だと気がついたはずである。
 ウィリーと三瓶の試合は片方八百長であった。三瓶選手だけが知らなかったのである。元極真会館某師範は「三瓶選手は日本の選手のなかでは体も大きくて根性もある。確かに日本の選手のなかでは強い。だがウィリーには絶対負ける、ウィリーは強すぎる」と断言している。
 この世界大会の八百長は他にもあったと語るこの某師範は「いまは極真会館の人間だからどの試合が八百長であるといえない。私も近々除名になると思うんだ、その前に退会するつもりでいる。そのときは発表します。いま言えることは少なくとも四つの八百長があったということです。そのなかでいちばん大きな八百長は、ウィリーと三瓶の試合であると思っていただいて間違いない」とも証言してくれた。
 それを裏付けるようにスポーツ誌の編集者のA氏は「大会会場の控室で大山館長と某師範が八百長の話しをしているのを一緒に聞いていたが、どうも東選手との試合のいくつかは八百長だったらしいです。詳しい内容については関係者だから勘弁してほしい」と語る節々に八百長が表面化し始めていることに半ばあきらめている様子が伺えるのであった。前号では取材に応じてもらえなかった主審の添野師範に再度ウィリーと三瓶の八百長試合について取材すべく出向いて行くと添野道場の看板は、極真会館の名が外され「新格闘術士道館」とかわっていた。あいにく添野師範は黒崎健時師範の黒崎道場に打ち合わせの為出かけており不在であったが添野夫人が取材に応じてくれた。
「添野は八百長試合のあった当日の夜は一睡もできずくやしがっていた」と語ってくれた。「たとえ三瓶選手が負けてもいいから正々堂々と試合をやらせたかった。第二回世界大会でウィリーがチャンピオンになってもいたしかたたい、次の大会でウィリーよりも強い選手を育てればいいんだ。外国人に負けることをこだわること事体異常だ。本当に嫌な審判をやらせられた」と夜中に蒲団のなかでひとり言を咳きながら男泣きをしていたと、当時(一年前)の記憶を少しずつ思い出しながら添野夫人は証言してくれた。
 添野師範は極真会館内部の陰謀によって除名されるまで大山館長への信頼は絶対的に存在していた。どんな命令にも従ってきた故に、つらい出来事を他の人より多く味わってきたようだ。そんなとき添野夫人はいつも陰から見守っていたのである。それから数日後、添野師範に会うことができたので八百長試合の事実を確認すると前回とはうって変わって「僕が審判をしていたので良く知っている」と明確に証言してくれた。
 そして、"地上最強の空手"というイメージを創った劇作家の梶原一騎氏も「外人(ウィリー)が優勝したっていいじゃないか、結局は自分のところの弟子には変わりないんだから」と語る心境には大山館長の不思議な行動に理解ができないといったことを暗に示しているようであった。
 以前、テレビで笹川良一氏が「極真会館はコマーシャル空手だ」と発言したことが思いだされる極真会館八百長事件の一幕である。


アントニオ猪木・ウィリー戦にも噂が

 極真会館八百長事件に続いて、もうひとつの情報が取材の先々で筆者の耳に入ってきた。それは「アントニオ猪木VSウィリー・ウィリアムスの"格闘技世界ヘビー級選手権"の二月二七日決戦は八百長」であるといった噂であった。そこで筆者は、噂の真相を解明すべく取材を開始したのである。
「二・二七決戦」当時のポスターやチラシなど見ると「卍固めか熊殺しか、格闘技総力戦争の火蓋は切られた」というキャッチ・フレーズで大々的に宣伝されていた。
 格闘技世界ヘビー級選手権とは、チャンピオンであった猪木がプロレス、プロボクシング、マーシャルアーツ、柔道、空手などのトップクラスの格闘家たちに呼びかけて、力と技を競い合った"格闘技戦争"のことである。いわばプロレスの猪木が強いのか他のジャンルの格闘家が猪木を超えられるのかといった異種格闘技選手権である。この選手権試合では、元プロポクシングヘビー級チャンピオンの"ホラ吹きクレイ"ことムハメッド・アリ、ウィリアム・ルスカ、アンドレ・ザ・ジャイアントなどの猛者たちが猪木と激烈に闘った。これらの格闘家たちに対して猪木は十四戦十三勝一分(引分けはムハメッド・アリ)の戦歴を残したチャンピオンである。そして格闘技世界へビー級選手権は、猪木のプロレス専任のため最終戦を残すだけとなった。最後の挑戦者は熊と実際に闘い、熊を殺した極真会館三段のウィリー・ウィリアムスに決定した。
 二・二七決戦は「力道山VS木村」決戦の再来といわれた。会場の蔵前国技館は超満員(一万二千人)の観衆で埋まり、リングサイド席は五万円の入場料であった。興行収入は一説によると一億五千万円ともいわれているが実際は六〜七千万円位であったようだ。テレビ(テレビ朝日、水曜スペシャルで生中継)の放映料だけでも七千万円といわれている。この二・二七決戦は、不満とシラケの極真会館第二回世界大会の八百長事件とは反対に観客を興奮させ実に楽しませてくれた試合であった。この二・二七決戦八百長説は極真会館の機関紙「パワー空手」の記事などでも暗にほのめかしてあるように関係者の間では常に話題になっていたようだ。
 試合の立会人である劇作家の梶原一騎氏は「このような試合で八百長という言葉そのものがおかしい。八百長でなげれば殺し合いになる。醜い殺し合いをしない前提で力と技を競い合うものだ。極真会館の大山(館長)が言っている殴って殺してしまえ、病院に入れちゃえなんて突拍子もない事を言っていたらプロレスの世界では毎試合死人が出てしまうことになる」と意味深な発言。
 八百長でなければケンカである。プロレスや空手などの格闘技が合法的な殺人ゲームに発展するとすれば、社会的にも大きな問題になるだけでなく法治国家として許されるはずがない。大山館長が殴って殺してしまえと発言するだけでも社会的にも大問題であると同時に、危険思想の持主ということになる。これはプロレスや空手だけでなくボクシング、柔道、相撲などでも同じことがいえるだろう。確かなことはこの試合には事前の打ち合せがあったことだ。
 二・二七決戦のプロモーターである新格闘術総師・黒崎健時師範は「猪木は三千試合も経験しているが、ウィリーにとってはデビュー戦である。誰もいない山の中で闘えば若いウィリーが勝つかも知れないが、大勢の観衆が見ている四角いリングでは経験豊富な猪木が有利である」と解説する。
 試合前からウィリー絶対不利説があらゆる関係者の間から持ち上がった。猪木は百戦錬磨の超一流のプロレスラーである。ウィリーにとってはデビュー戦ということで極真会館への体面も考えたうえで事前に打ち合わせが行われたのだ。


関係者たちの証言構成

 そもそもこの試合の発端は、格闘技世界一を名乗る猪木に対して「けしからん」と怒った極真会館の大山館長の発言で、極真会館の連中が騒ぎだしたことに始まる。そこでニューヨーク支部長の大山茂師範が「ウィリーとやらせましょう」といったのである。つまり火を焚付けたのは大山館長なのである。だがウィリーは、この試合の直前に極真会館を破門させられ、大山師範は謹慎処分を食ったのである。最強の空手を名乗る極真会館が格闘技世界一の猪木に挑戦するのは理解できるが、挑戦するウィリーに不安を抱いて身の安全(破門)を考える極真会館のやり方は理解に苦しまざるを得ない。
 元極真会館S師範は「大山館長は小心者である。なにか起きるとビクビクオロオロしてすぐ逃げる。最初ウィリーと猪木の試合は金になるからやろうよと言ったのも館長なんです」と語る。
 梶原氏は『大山(館長)はウィリーと猪木の闘いは三〇秒でウィリーが勝つと言っていた。三〇秒で勝てなかったのは梶原、黒崎、大山茂、レフリーのユセフ・トルコがウィリーにセーブをかけたと機関紙の『パワー空手』に書いているが冗談を言っちゃいけないよ。ウィリーが三〇秒で勝つなんてありえない。たとえ相手がシロウトでも必死に逃げ回れば空手の達人ですら三〇秒じゃ無理。格闘技なんてある程度のレベルまでいったら差はない。一流のプロレスラー、ボクサー、空手家だって勝負をやるたびに変わるんだ」と語る心境のなかには、試合の際、大山館長が梶原氏をはじめ関係者に対して黒い殺人指令(その事情は後述)を出したことに怒りが爆発しているようだ。そして「俺がこのような発言をするのは、大山(館長)が命を狙うと聞いたからだ」。と語気を強める。
 猪木にしても今日のプロレス黄金時代を築いたことから判断しても実力は水準以上のものを持っていればこそであり、絶大な人気もともなっているのではなかろうか。それはどのスポーツの世界でも同じことがいえる。たとえば野球の長島や王の人気は、実力があればこそファンばスターとして認めるのである。自分はスターだ、カッコいいだけではスポーツの世界では認められない。アイドルとスターは違うのである。実力があって回りの人間が応援し合ってこそスターの存在がある。そこには自然と謙虚な態度が必要なのである。ところが大山館長は、劇画などマスコミで有名になり神様などと呼ばれて本人も思いこみ有頂天になって真の心を忘れていたのではあるまいか。
 そのことについて元プロレスラーであり力道山や猪木にプロレスの技を教えたユセフ・トルコ氏(現在は実業家)は「いまの大山(館長)があるのは梶原先生のお蔭だ。原点に戻って考えろ。空手の世界で強ければそれでいいんだ。だからといって他の格闘をチャカしちゃいけない。極真会館には大山(館長)というガンがある」と、世界に羽ばたき大きくなれるはずの極真会館が、それをできない理由だと指摘している。
 極真会館は日本では、梶原氏の劇画やマスコミの力で有名になったが、海外では知られていないのである。特にアメリカではカンフーは知られているが極真会館の知名度はほとんどないのである。これは海外旅行をした読者ならご存じのはずである。劇画と現実は違うのである。
 アメリカで大山館長が有名であるとすれば、プロレス時代にグレート・トーゴウとタッグチームを組んでいた頃の「マス・トーゴウ・ブラザーズ」の知名度ぐらいはあるかも知れないが、いまではそれすら知っているアメリカ人も少なくなっているはずである。
 トルコ氏は昔から大山館長と仲がよくなかったという。大山館長の恩師のグレート・トーゴウをホテル「ニューオータニ」で殴ったこともあった。大山館長は「けしからん、復讐してやる」と口で言ったものの現実には何もなかったという。トルコ氏は「力道山が生きていたとき、大山(館長)は逃げまわっていた。力道山が生きていれば今日の大山はない。ところが故人になると、ケンカを売ったら力道山は逃げていったと嘘をつく。それにしても梶原先生を殺せ!という大山は卑劣だ。いつでもオレが大山の相手になってやる」と怒る。
 その他、極真会館の演武のなかにも八百長はあるという。大山館長の専売特許ともいえる「ビールビン切り」は、芦原師範が考えて大山館長におしえたのである。ビールビンを火にあて焼いて水に漬けるとヒビが入る。そこを目がけて手刀で打つと簡単に割れるのである。また十円硬貨を指で折り曲げるのもトリックである。黒崎師範は「硬貨を二つのベンチで曲げても簡単には曲がるものではない。ましてそれを指で曲げることなどできない」と断言する。
 これらの八百長演武について大山館長の空手の師である城秀美氏は「大山館長はサーカスの軽業師をやっていた。だからトリック的演武はうまいはずだ」と解説してくれた。
 また、大山館長を有名にした牛との格闘(牛殺し)は、牛の角が弱くなる時期で簡単に角が折れる仕掛があったとか、牛は人間になついている(人を襲うことのない牛)のを選んで格闘したとか極真会館関係者の間では噂されている。こうした話は極真会館をめぐるホンの一握りのエピソードである。


"八百長"当日のプロセス

 さて、世界格闘技ヘビー級選手権試合の数日前。猪木宅の玄関から身長二メートルのウィリーと並んで数名の男が入っていった。関係者の一人は「ウィリーは猪木の自宅で秘かに二人で練習をしていた」と証言する。一方極真会館側では、大山館長が添野師範を本部に呼び出して黒い殺人指令を言い渡した。
「添野、よく聞け、二・二七決戦のとき一ラウンドに乱闘に持って行き、新日本プロレスの新間寿営業本部長と猪木を殺せ。その乱闘で梶原一騎と黒崎健時も刺せ」これは刑法にある"殺人教唆"である。
 当の黒崎師範は「なにを思って殺せと言ったのかいまだに分らない。殺れば極真会館は終りだ。十年かかって築きあげた組織が殺人を実行したら壊滅する」と解せない命令にクビをかしげる。(大山館長サイドのコメントが得られない以上、推測するしかないが、黒崎氏がプロモートし、梶原氏が立会人であったため、金儲けにならない大山館長が怒ったとしか考えられないのだが……)
 二・二七決戦の当日、添野師範は館長命令に従って特攻隊員(道場門下生)百五十名を結成して会場の蔵前国技館に乗り込んだ。特攻隊員たちはメリケン、チェーンなどの武器を隠しながら準備していたのである。そして館長命令を遂行すべく会場のなかに全員消えていったのである。これも刑法でいう兇器準備集合罪である。
 極真会館関係者の某氏は「添野師範の門下生が会場を警備していた。武器などを隠し持っているのを知っていながらも形式的なボディ・チェックを簡単に済まして入場させていた」と証言する。
 ここに黒い殺人指令の全容が表面化するに致ったのは、極真会館の内部抗争ともいえる陰謀的な添野事件(前号にて詳しく前途)で被害者である添野道場(現在士道館)側の発言で明るみに出たのである。
 このような殺人教唆を白昼堂々と命令している極真会館の大山館長に、警視庁捜査四課と添野事件を担当した埼玉県警捜査四課が現在ある容疑で内偵しているとの情報が噂されている。
 この殺人教唆の被害者といえる梶原氏は、「チンピラ芝居みたいなことを言っているのなら軽蔑する。まだ大山(館長)とは義兄弟だ。殺せと言ったことが本当なら解消してもいい。そんな不可思議なことを言ったら大山の右腕左腕で守ってきた人たちは全員シラケてしまう」と語る端々に怒りが感じられた。
 格闘技世界ヘビー級選手権の会場は、超満員の観衆が見守るなか午後七時四五分に試合は開始された。
 ウィリーは、ミステリアスな感性と深い思考力を持った格闘家であるが、興奮した会場の雰囲気に終始上がりっぱたしだった。デビュー戦のウィリーの緊張した姿があった。
 試合のルールは、ウィリーが8オンスのグローブをつけ交換条件として猪木の寝技は五秒間と決められていた。試合は一ラウンドから場外に縺れ込んだ。梶原氏は「ウィリーは、リングの外に落ちると必ず猪木の上になる。あの反射神経は大したものだ」。と語るように、猪木は場外に落ちると必ず下になってウィリーに殴られていた。そこで添野師範は、黒い殺人指命を遂行するチャンスとばかり猪木に近づこうとしたが、プロモート役の黒崎師範に腕を押えられ、行けずじまい。添野道場側は「猪木と新間営業本部長はやるつもりでしたが、黒崎師範と梶原先生に対してはなにもやるつもりはありませんでした。私の感触では館長は試合を潰すことが目的のように思われました」と証言する。
 試合の結果は、四ラウンド一分二四秒場外乱闘から猪木が左ワキ腹打撲。ウィリーは右ひじケン破裂でドクター・ストップがかかり引分けとなった。この試合の四ラウンド目に、添野師範は、リングに上がりウィリーのグローブをハサミで切り外ずして素手で猪木をやれと一人気を吐いた。そして試合後控室に新間営業本部長が数名のプロレスラーをつれてきて、大山師範とケンカになり、添野師範は新間営業本部長にヒザ蹴り一発をくらわせた。新間氏は苦しそうにうずくまったという。
 試合の翌日、添野師範は「ひとり踊らされたみたいだ、黒崎師範にタクシーのなかで猪木とウィリーの試合は、力と技の競い合いである、大山館長がいっている殺し合いでたいと聞かされたときはガクッとした」と正直に語ってくれた。大山館長をはじめ極真会館サイドでは最初から殺し合いと感違いしていたのである。
 黒崎師範、添野師範、梶原氏など試合に関係した極真会館側。そして新日本プロレス関係者の証言を総合すると、前述したようにリングの止での試合なら猪木が絶対有利であり強いが、誰もいない山中での試合だったらウィリーが勝つ可能性もあるということであった。結局、極真会館の顔を立てて引分けした結果と思われる。それにしても猪木の試合進行のかけひきは、"千両役者"ものだった。
 格闘技世界ヘビー級選手権のウィリーVS猪木戦の興行は、梶原氏(立会人)にとって一円の収入もなく出費だけで終った。一方プロモーターの黒崎師範も出費が重み結局赤字となった。黒字は新日本プロレスのテレビ放映料によるものだけである。梶原氏は「このような興行は一回では儲からない、二度三度と興行するうちに利益があがるのである」と語り、大山館長が儲けていると勘ぐっているんじゃないかともらす。
 この間、大山館長は、試合の数日前から日本を出国してカナダ、アメリカから何度も添野師範に電話をしていた。試合が終ると、帰国して四人を殺していないのを知ると、添野師範を本部に呼びだして怒ったのである。いまにして思えばこの頃から大山館長の添野追放の気持が芽生え始めていったのではなかろうか。


添野事件とは何だったのか

 添野師範が極真会館を除名されたのは事件発生前の九月八日であった。国際空手道連盟(財)極真会館では緊急評議会が開かれた。
 出席者は大山館長、河合大介評議員長、風呂中斉評議員(講談社)、館孫蔵弁護士であった。この緊急評議員会で、添野義二都下埼玉支部長、森井義孝埼玉支部理事長、芦原英幸愛媛支部長ら三名の除名が決定された。
 九月十一日。大山館長は添野師範を本部の館長室に呼びだした。大山館長は「お前は二代目(極真会館)だ。なにか悪い事はしていないか。埼玉県警の押岡警部から連絡があり添野はヤクザ者で逮捕は時間の問題だといっている」と尋ねたのである。添野師範は、極真会館内部の陰謀的事件を知らず「なにも悪い事はしていません」と答えたのであった。
 既に除名処分が九月八日に決まっているのに三日も過ぎてから「お前は二代目だ」と言う大山館長の不思議な行動と発言は理解に苦しむところだ。
 添野事件は、都下埼玉支部の勢力が大きくなり分支部が増えることによって極真会館側が各支部を吸収して利益の拡大を計るために郷田師範をはじめ盧山埼玉支部長らが手先となって画策した事件であることは本誌前号で述べた。それに便乗した大山館長にも責任はあるだろう。この添野事件によって極真会館関係者の多数の逮捕者(西野熊谷支部長、高橋川越支部長他)を出しながら添野師範以外は処分されず、極真会館の看板を出して空手の道場を開いているのは明らかな矛盾である。しかも裁判の結果もみずに除名処分にした性急な行動にも矛盾だらけの組織であることが窺えまいか。添野師範が逮捕され留置所にいる時にも大山館長は、一度も差入れもせず電話の一本もかけず突き放したのである。かつて破門され近々破門を解かれるという話が伝えられているウィリーも「極真にはアイソがつきた。いかなる理由があれ復帰する気はない」と全面否定。
 添野夫人は「子供(小一)が学校に行くと、上級生(五・六年生)にいじめられて泣いて帰ってくるのです。学校に行きたくないという子を叱り付けて無理矢理学校に行かせました。こんな極真会館は全私財を投げ売ってでも潰してやりたい気持です。血も涙もないと思いました」。つらい毎日を振り返り涙を浮かべて心境を語る。
 新格闘術士道館という名は、留置所のなかで考えた名であるという。所沢警察の留置場のなかで「最初は大山館長の悪口を警察官から聞かされると怒っていたのが、やがて極真会館の陰謀と気がつくと、留置場の壁を手が腫れるまで叩き悔しがっていた」と留置場で同室だったテキ屋のS氏は証言する。
 極真会館側は添野師範が逮捕留置されているとき「三年から五年は刑務所に入る。だから添野道揚をやめて極真会館についてこい」と各分支部に"通告"したのである。
 城西大学空手部の阿部主将は「押忍。極真会館から何度も電話があり添野師範とは手を切れ、三年から五年は刑務所に入ると言われた。でも我々は添野師範を信じていました」。城西大学空手部は、添野師範が創設者となり貢献してきたところである。そこまで極真会館は陰謀の手段をとるのである。城西大学空手部全員の襟から極真会館のバッチが外され道場から大山館長の写真も消えていたのが印象的であった。
 添野道場(士道館)側は「添野のいまの心境は新選組の土方歳蔵と同じ。極真会館にいる人たちは、極真会館の名でなんとかしようとしている人たちが残っている。逮捕される前、全盛期は三千人いた門下生が現在二百人しか残っていない。これから試練はあるが武士道に反しない真の武道を志ざすつもりです。また強いだけでなく、他の流派とも交流しながら楽しめる空手をやるつもりです」と反省を踏まえてこれからの方針を語る。
 結論を急ごう。「全国に散在する極真会館の支部は金で買える」との噂がある。取材調査すると、千葉県支部長の小嶋幸男氏は洋服屋であるにもかかわらず支部長になっている。S師範は「空手のできない人が支部長を金で買っている。広島支部長の森周治、愛媛支部長の高見成昭もそうだ」と証言する。
 性急な判断かも知れないが、結局のところ組織を拡大し、権力の座についた大山館長にとって武道への志は、いつしか金に置き換えられていったように思えるのである。
 今回の取材を通して、明るみに出た極真会館の内幕の数々は、まだある。筆者の机の上は資料が山と積まれている。それにしても残念なことは、極真会館・大山館長側が「除名した弟子のことは何もいいたくない」と取材に応じてくれなかった点だ。
 最後に、添野師範が大山館長に対して、いつでも真相を明らかにするためマスコミ対決の用意があることを告げて欲しいと語ったことをつけ加えておこう。〈了〉
posted by KarateKid at 22:18| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

四天王・添野師範逮捕で明るみに出た極真会館の大スキャンダル(前編) (噂の真相 81年1月号)

レポーター 池田草兵(ルポライター)


極真の実力者・添野逮捕の不可解さ

 九月十九日、午前六時。埼玉県警の機動隊一〇〇名がバス二台に乗って、極真会館都下・埼玉支部長・添野義二師範の恐喝未遂容疑にたいする家宅捜索ならび逮捕のために、所沢市美原町の添野道場に到着した。
 その、数時間前には毎日、読売、東京新聞をはじめ、各スポーツ新聞の社会面に"極真の猛虎・添野逮捕"の記事が用意されて輪転機のなかで捻りをあげていた。
 このような事件は、逮捕取り調べが進展して犯罪が立証できるようになって各報道関係に発表されるはずだが、すでに逮捕の前日には埼玉県警捜査四課から情報が流されていた。添野師範自身も家宅捜索の過程で、新聞の記事をみながら逮捕されたのではなかろうか。記事の内容は、添野師範の自叙伝『いつの日か男は狩人』(けん出版発行)を、同じ極真会館の岩見弘孝氏を脅迫して販売したというものである。
 同事件では極真会館西野希智堆(態谷支部長)、高橋高志(川越支部長)も逮捕されたが、この二人は現在、極真会館道場を再開している(その事情については後述)。
 ここに一見単純な恐喝事件が実は、極真会館内部の関係者が絡み付いた、ドス黒く根の深い複雑な事件であることが窺える。結局、警察では、目下処分保留のままとなっている。新聞記事にあった自叙伝の強制的な販売(恐喝)に関する被害届はその後、一件も警察にでてこなかったのである。
 やむなく別件の恐喝未遂容疑を新たに用意したが、これも極真会館内部の密告者によるものであった。前回と同様密告した人物まで、が逆に逮捕されるという添野再逮捕劇であった。
 手の混んだ別件再逮捕劇の裏側には、警察としての体面もあったと思われるが、極真会館の内部事情が添野事件に関与していたためでもある。
 筆者、添野事件の取材を開始した時、極真会館にたいする一つのイメージ(恐怖感覚)を持っていたが、そのイメージをいったん白紙に戻して、ジャーナリストとして取材を敢行していくうちに、劇画(空手バカ一代他)やマスコミで活字になっている極真会館は商業的な側面があるにせよ、あらゆることが虚像でぬり固められていることに驚いた。これについて、新格闘術黒崎道場の黒崎健時師範は「マンガはマンガとして見るべきで、マンガにのせられるのは異常だ。実名が登場するから錯覚をおこすんだよ」、そして「極真会館の大山倍達館長についていえば、マンガとか本で書かれていることを逆に解釈すれば間違いはないでしょう」と明確に語ってくれた。
 添野事件の取材が進行していくうちに、極真会館は実像と虚像が織り交ざっており、虚像ともいえる部分を剥していかなければ、真相はなにも書けなくたってしまうことが明らかになってきた。筆者としては、勇気をもって筆をとることにした次第である。
 残念なことには、極真会館館長大山倍達氏に添野事件について取材を申し込んだが、女性事務員に「大山館長は全国大会で忙しいので」と断わられ、再三取材を申し込むと事務担当のイトウ氏を通じて「愛弟子については、なにも語りたくない」との返答があっただけであった。一方「事件の当事者添野師範も「事件で迷惑をかけたので、いまは反省しており自重したい。だから事件に関しての取材はいまは勘弁してほしい」とのことであった。
 まさにマスコミタブーへの挑戦というわけだ。


四天王添野師範逮捕のシナリオ

 添野師範は、極真会館の四天王の一人として活躍してきた。十六歳のときに入門して十七年間、極真会館館長大山倍達氏を師と仰ぎ空手の道を純粋に突き進んできた男である。その彼が、結局大山館長に裏切られ、陰謀と内部抗争によって、三十三歳の誕生日を一人留置場で迎える破目となったのである。事件を境に極真会館を除名され、現在新格闘術『士道館』の首席師範として創設の準備に奔走しているという。
 事件の発端は、逮捕される二ヶ月前の七月中旬に溯る。当時極真会館の都下および埼玉地区の責任者であった添野師範は所沢市、熊谷市、川越市等の主だった都市や伊豆の大島などに分支部を設置していた。極真会館本部(池袋)を取り囲むように、その数三十カ所、最大なる支部に成長させた功労者でもある。
 極真会館の支部組織は、全国各地を区割し各支部が重複しない措置が採られている。ところが、埼玉県戸田市に西田幸雄氏が極真会館道場を開設したことから、本事件の内部抗争が始まるのである。
 埼玉地区の責任者である添野師範に、なんの相談もなく道場を開き、目と鼻の先(約一キロメートル)にある添野道場蕨支部の周辺にポスターを貼りまくったのである。某師範は語る。「添野に一言いってやれば協力して仲良くやっていけたのに、添野が再三再四電話しても不在だし、連絡もくれないので大山館長に会いに行って相談したらしい」。
 ところが、大山館長に「盧山初雄が全国大会のチャンピオンになったら、どこへでも道場をだしてやると約束したので、戸田は盧山、の支部にする」といわれたらしい。盧山初雄氏は極真会館本部の許可を得て埼玉南支都長に着任し川口に道場を開設したばかりであった。“添野道場側は西戸田支部長にたいして「礼儀として武道をわきまえることをしてもらいたかった」とのべているものの、極真会館の添野師範にたいする陰謀はその頃から巧妙な手口によって正体を現わし始めていたようだ。添野本人も薄々気がついていながらも、この時点では半信半疑であったようだ。
「以前、盧山川口支部長は、北朝鮮の大川という人物がスパイ容疑で警察に逮捕されたとき、盧山も関係しているということで極真会館を除名されていた。ところが、どういうわけかそれを簡単に復帰させたことがある」と極真会某師範が語っているように、いったん除名処分になっても簡単に復帰できるケースもあるようだ。さらに極真会館を去った山崎照朝氏も「極真会館のおかしいところは、除名になった人間がある日突然復帰するところだ」と指摘する。
 除名処分を食っても、何らかの根拠と本人の自己批判があれば、すんなり復帰させるというのも、ひとつの"見識"ではある。それが添野師範の場合には適用されたかったところが、いかにも"ご都合主義"を思わせる。


大山ワンマン体制下の内部抗争

 マスコミで活字にこそなっていないもののいま、極真会館内部にあるものは陰謀と矛盾、虚像と実像がうずまいている。多くの優秀な武道家たちも極真会館を去り離れていった。
 黒崎健時師範、大沢昇師範、中村忠師範、第一回世界大会のチャンピオン佐藤勝昭師範、山崎照朝氏、芦原英幸師範、二宮城光師範、そして添野義二師範と名を出したらきりがなくなる。そのなかには、自ら脱会した武道家もいれば除名になった武道家もいる。その武道家の人たちは「極真会館にはいかなる理由があれ戻らない」という。
 これだけの人物が極真会館で育ち成長し集まったのは確かに事実だ。ある意味では武道家としては一流の人たちである。言葉では言えない超えたものがあればこそ一流の才能のある武道家たちが極真会館の名のもとに集まり、精神を肉体を鍛え一流の武道家として成長したのである。そして、去っていった−−。
 なぜなのだろうか、添野事件を通していろいろな武道家たちに意見を聞くと「大山館長という人は、自分の弟子が大きくなると締め出すんですよ、普通なら喜ぶが大山館長は反対なんですよね」と去っていった武道家たちは口々に語ってくれた。そして「大山館長にしてみれば、添野君が伸びて力が大きくなると恐しくなって手を打ちはじめたんです」ともいう。
 元極真会館某師範は大山館長について、「自分は神様だ、カッコいいと思っており、それで添野を悪者にした。師弟とは親と子の関係も同じだ。それを自分の子供が悪いことをしたからといって突き落す。親なら自分の子供が悪いことをしたらかばうものだ。それを平気で大義名分の為に突き落す大山館長は神様でもなんでもない」と怒りをぶちまける。
 この発言のなかに極真会館の虚像ともいえる部分が窺える。それは、神様大山倍達が存
在していると同時に実像の部分で人間大山倍達が存在しているのであろう。ときとして人間は実像と虚像を履き違えるものである。神が大義名分にこだわるだろうか、自分の立場にこだわるだろうか。そんなことを考えるのは人間だけである。最近除名になったA師範は、「僕は人間で結構、神様なんかにはならない。大義名分はどうでもいい。賊軍結構。もし武将の時代だったら僕は殺されていますよ。織田信長の本能寺のときのように。もし大山館長を殺してもいいと言われれば殺してやりたいですよ。現代ではそんなことは許されませんから、こちらからはやりませんがもし、僕に万が一があったら、それは大山館長の仕業であると言い切れます。そのときのために決死隊をつくったんです。道場生のなかには大山館長を殺すといっている連中もいるが、こちらからは絶対に手を出してはいけないって言い聞かせてあるんです。僕が殺されたときに殺れってね」
 と、語るA師範の言葉にはいまの率直な心境が表われているようだ。そして「大山館長に殺られる可能性はありますよ」と語った裏には、一年半前に大山館長の指令で、北海道の高木支部長が四国の芦原支部長を殺しにヤクザ者(拳銃所持)を一人つれて、北海道から船に乗って四国に渡ったことがあるからだという。四国に着いた高木支部長は芦原師範に電話して「大山館長の命令で殺しに来た」といって通達したが、逆に芦原師範に返り討ちにあって片目が失明してしまったのだという。このとき高木支部長と一緒にいたヤクザ者は拳銃を持っているのにも拘らず逃げてしまったのである。
 ここにも、極真会館の内部抗争はあったのだ。極真会館の内部抗争と陰謀は組織の宿命として常に存在しているのであろう。陰謀と内部抗争に関係しない唯一の方法は強くならないことだ。だが、武道家としては強くならなくては意味がないわげだから、ここにジレンマがある。添野師範も内部抗争の被害者の一人であることだけは確かなようだ。


自叙伝恐喝未遂事件の"真相"

 はなしは前に戻るが、添野逮捕のニカ月前に極真会館内部の人たちによる、添野師範の追い出し作戦(陰謀)が極秘のうちに進められていたのである。結局、機動隊員一〇〇名が動員され家宅捜索、逮捕といったなんともモノモノしい大袈裟な行動が狙いであったのだろう。
 山崎照朝氏は「最初、はなしを聞いたときはビックリしたんです。(添野は)拳銃は持っている、麻薬はやっている、傷害だ、博打はやってるで二十件位の犯罪があり懲役五年は間違いないっていうんですよ。間違っていたら腹を切るなんていう人もいて驚いたんです。この話は、添野が逮捕される二週間ぐらい前に大山館長から直接聞かされました。大山館長はオロオロして、心配しながら僕に何度も相談されました」
 七月中旬には、すでに警察は内偵していた。建築会社のSさんが「七月二十五日頃だったと思いますが警察から電話があって、添野さんが恐喝をやっているっていうんですよね。そんあことをするような人間ではないといったんですが……」
 自叙伝『いつの日か男は狩人』は、新聞などの報道によると、"自費出版"と書かれていたが、地元(所沢市)の唯一の出版杜である「けん出版」が、実際は、添野師範の功績を認めたうえで発行したものである。現在、発行部数は二万五千部で事件が報道されてから、かなりの返本があり、停滞打撃を受けているという。けん出版の社長浅野兼次氏は、「まるで、恐喝するためにつくった本みたいにかかれているが、一度もそんな事件はなかったんです。岩見という人は添野師範といっしょに極真に入門したが、いつも添野師範のことを自慢していたんですがね」とその間の事情を語ってクビをかしげる。
 自叙伝に関する恐喝未遂事件の真相について関係者の証言を総合すると、所沢のスナック『バロン』で福田という友人と一緒に酒を飲んでいた岩見氏が、添野道場の門下生のイノマタ氏(元キック・ボクサー)がくると、急に添野師範の悪口を言ったのである。イノマタ氏が注意すると岩見氏が突然殴ってきたのであった。殴られたイノマタ氏が驚いて殴り返すと喧嘩になったのである。このことに腹をたてた岩見氏が警察に殴られたことだけを告げたため、イノマタ氏は警察に呼ばれて事情を聴取された。警察では原因が岩見サイドにあることを知ったので、今度は岩見氏を呼び出して説教をしたのである。自分の方に分がないのを知ると、添野師範の悪口とイノマタ氏の両人に謝罪すると共に、添野師範の自叙伝二千冊を購入することを自分の方から約束していったという。(実際は本は一冊も購入していなかった)
 これが新聞などで報道された自叙伝の恐喝未遂容疑である。当然、起訴されず処分保留になったのは先に述べた通りである。埼玉県警は体面を考えたのかそれとも、極真会館と何か関係していたのかは不明だが、別件の恐喝未遂容疑を用意したのである。それも極真会館の関係者同士の事件であった。


他の関連事件の"真相"

 まだある。吉川元入間支部長(極真会館)の頭髪を剃ったことで起訴になった事件である。吉川元入間支部長は暴力団の準構成員あつかいされている人物。“一年ぐらい前には、拳銃の不法所持で逮捕されたり、所沢駅で無低抗の駅員を外人と二人で撃って逮捕されたこともある。このとき、添野師範は破門を申しわたしたのである。以前入間市で、闘道会館という空手道場をやっていた(現在閉鎖)吉川元支部長は、添野道場清瀬支部(小林茂雄支部長)の女性門下生E子(当時女子高生)に手を出して、女房子供をほったらかしてE子と深い関係に落ち込んでいった。このとき以来E子の性格は変わり、夜遊びはするし派手好みになっていった。このことを心配した両親に相談を受けた添野師範は、吉川元入間支都長のところにいって説得したが聴き入れず、妻子を捨てE子と同棲するようになった。添野師範としては捨て置けず再び説得すべく吉川元支部長のところに行ったら、狭山警察署のパトカーを呼んだりしたという。結局、狭山警察署員から「よく話し合いなさい」と言われ、数日後吉川は兄と一緒に添野道場を訪れたが、反省の色は見せず、逆に「添野師範の奥さんが道場生とあやしい関係にある」などと言い、添野はやむなく頭を坊主にしたという。この世界によくある話である。もし、これが犯罪ならスポーツの世界は犯罪者だらけになってしまうではないか。
 ついでにもうひとつの事件を紹介すると、高橋川越支部長(極真)が証券会社の社員A氏に、無断で名前を使われ、数百万円の損害ができたので脅してくれと添野師範が頼まれた一件だ。高橋川越支部長は「会社の社長だから舐められたら困る」といって証券会社のA氏を添野道場に呼び出した。このとき、添野師範はかなり強く脅したことを本人も認めているという。証券会社のA氏は「一五〇万円で勘弁してくれ」と頼んだが高橋支部長は納得しなかった。(添野師範はその日以降一度も証券会社のA氏とは会っていない)その後日、数回にわたって五百万円を取ったのは、高橋川越支部長であった。そのお礼として一五〇万円を添野に渡したらしい。高橋川越支部長、西野熊谷支部長の二人は、添野事件に関係して逮捕された、ところが、彼ら二人は現在極真会館の支部長として存在しているのは前述した通り。除名されるべきはずの両名が極真会館のなかで大手を振るっているのは、なんとも不思議なことである。 以上が関係者の証言だ。
 ここに、添野事件は陰謀と内部抗争によって社会的に経済的に壊滅させようとする糸口がハッキリみえているといえまいか。この件について山崎照朝氏は「西野、高橋が逮捕されているのに道場をやっている。陰謀を認めざるを得ないと語る。そして添野事件に関した極真会館の内部事情について「添野は出てきているのに、極真会館の郷田師範をはじめ何人かは三年から五年の懲役で間違いなく入るよと言っている。入らなければ腹を切るという奴もいたそんなわけで仕組まれたと思わざるを得ない。今回の事件は、こじつけの起訴だ。納得できない。彼らがわかってやったのなら、本当に腹を切ってもらいたい」と、極真会館の陰謀説を主張すると共に責任(この場合、腹切り)をとるべきであると語る。事件は単純な事件ではなく、内部事情が複雑に絡みついた事件であることを裏付ける山崎氏や関係者の発言が後をたたない。
 なぜ、このような事件や陰謀が極真会館内部に起こりうるのだろうか。極真会館に関しては大山倍達館長が最高責任者である。この事件が陰謀的事件であるとすればこの事件の責任は大山館長にあるといっても過言ではないだろう。


驚くべき極真会館スキャンダル

 そこで、今回の事件を通して大山倍達館長はどんな人物かということを、極真会館の関係者の"内部告発"をもとに極真会館と大山倍達氏の実体にスポットをあててみることにした。
 内部告発者は二、三人の師範だげにとどまらず、その数は増えつづけていくのであった。今回の事件で、逮捕取り調べをした警察官の一人は「大山倍達氏は戦時中特攻隊にいたという話があったので調べてみると、その事実はないのです」と証言。このように大山館長の自伝には偽りがいくつかある。大山館長は空手をやるまえはプロレスラーでありボクシングをやっていた。「体が大きいのはレスラーだったからですよ」、と大山館長の古き友人のN氏は切り出して、「大山館長はお金にキタナイんですよ。それで現在は付き合っていませんし、付き合いたくもたいですね。」
 これについて、黒崎道場の黒崎健時師範も「大山館長は、いつも生徒に月謝を納めろと言ってた。武道家として先生としての立場は、精神肉体を鍛える人であるべきはずが、大山館長はお金のことをなんべんも言っていた。それは事務所で管理すればいいんであって、先生はあくまでも教えるという立場だけでいいんですよね。
 以前、私が極真会館で師範をやっていたときに、僕の名で除名になった人たちがいたんです。その人たちはなんで除名にたったかというと月謝を納めてない人。それと、外国から来た研修生」。
 ダソクながら"外国から来た研修生"の除名理由は極真関係者の女性といっしょに酒を飲んだり体をいじったり乱交パーティまがいのことをしたため、という。
 この手の"色もの"話は大山館長にも、いろいろあるらしい。
 一年半ぐらいの前の北海道大会のときに、北海道の高木支都長から十六歳の女学生を紹介された大山館長は、売春容疑で警察に逮捕された。この事件は北海道の新聞には報道されており、なぜか「空手家O」という名前になっている。
 黒崎師範は、大山館長の女性問題についてエピソードをいくつか話してくれた」。「通訳をしていたM嬢」「本部にいた女性事務員のK嬢」、「亭主持ちのお手伝いさん」などだが、これも精力絶倫のゆえのようだ。
 英雄は色を好むということわざがあるが、社会的な問題(未成年との売春、間男)を超えたところでの女性関係は、武道家としての作法以前の社会的な道徳問題ではないだろうか。ここにも大山館長の知られざる人間像が浮上してくる。
 次は八百長の証言である。第二回世界大会において八百長事件が少なくとも四つは存在していたという。元極真会館某師範は証言する。
 添野師範は第二回世界大会の会場(武道館)で、大山館長から呼びだされたという。「添野、館長命令だ。ウィリー・ウィリアムスとの試合で八百長をやれ」。と添野師範に指令したというのである。
 大山館長は、大会前にこう語ったという。「絶対に日本人が優勝しなければいけない。外国人に負けてはいけない。チャンピオンは日本人のなかから出なければいけない。これは館長命令だ」。その館長命令が八百長命令と変わっていったのは、ウィリー・ウィリアムスの強さゆえだった。
 大山館長は添野師範に「いいか、三瓶(啓二)とウィリー・ウィリアムスの試合でウィリーが三瓶の襟を掴むから反則負けにしろ。これは館長命令だ」といって添野師範の襟を掴んで説明した。極真会館の八百長の手口は二つある。片方八百長と両方八百長である。ウィリーと三瓶の試合は両方八百長であった。つまり、ウィリーも知っていたのである。だから三瓶選手の襟をわざとつかんで自ら反則負けになったのである。添野師範はウィリーと三瓶選手の主審であった。
 新聞記事を見るとウィリー狂乱と書かれていた。ウィリーはくやしい気持を表現したのではないだろうか。なんとも奇っ怪な話ではないか。<次号つづく>
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2006年06月18日

極真会館の跡目争いとゴッドハンドの生涯(後編) 故・大山倍達の遺言は偽造だった!?  (宝島30 94年10月号)

大山倍達が自らの手で消滅させた財団法人の名が、
大山倍達自身が口述したはずの遺言状に出てくる!
いったいその背後には、何があったのか!?

石山永憲


 闘うことを生業とする武道家の人生は、日々の安寧を最大の財産とする市井の人々から見れば、おそろしくドラマティックなものである。そのなかでも大山倍達という空手家の歩んだ人生は、あまりといえばあまりに波瀾万丈で数奇なものだった。
 数度にわたる山籠りで超人的な空手技を身につけ、下山後に牛と対決してこれを素手で撲殺。その後はアメリカを皮切りに世界各国を放浪し、行く先々でボクサー、レスラー、拳法家と対戦し、そのことごとくを撃破。帰国後に実戦空手流派・極真会館を設立。今やその門弟数は全世界で累積一千二百万人を数えるに至った。
 その大山倍達が激動の人生を終えたのが、今年の四月二十六日のこと。享年七十歳。死因は肺癌だった。
 その翌日に行なわれた密葬の最後の出棺の際に、梅田嘉明審議委員長(横浜東邦病院院長)から、大山倍達が残した遺言書の存在と、その中で松井章圭氏が後継として指名されていることが発表された。松井氏は元世界王者という空手家として最高の実績を持ち、また三十一歳という若さながら、人格的にも評価が高い人物である。
 あまりにも巨大な存在だったカリスマを失った悲しみと喪失感の中にも、組織としての極真会舘が、確実に新たな歩みを始めたことを、参列した多くの人間が感じていた。
 しかし、主人公が死してなお、大山倍達の数奇なドラマは完結することを拒んだ。


偽造された遺言?

 大山倍達の死から二ヶ月近くが過ぎた六月二十日、大山倍達の次女・恵喜(えき)さんと三女の喜久子さんが、池袋の極真会館本部で、突如抜き打ちの記者会見を行なった。
 二人によれば遺言は代筆による不完全なものであり、大山倍達自身の署名も捺印もなければ、口述を録音したテープもない。そのうえ、遺言の作成遇程にもあまりに不明な点が多く、偽造の可能佳が高い。よってその遺言書に記されている松井章圭氏を、自分たちは後継として認めることはできないと訴えたのである。それだけではなく、自分たちは大山倍達の死因そのものにも大きな懐疑を抱いていると述べるなど、かなりショッキングな内容の会見だった。
 この記者会見の模様は、テレビ、新聞、雑誌などのマスコミによって大きく報道され、新体制の極真会鎗と大山倍達の遺族との確執が露見するところとなる。
 この記者会見の三日後に、今度は極真会館側が記者会見を行なった。この会見には松井新館長は出席しなかったものの、国内の有力な支部長四名が出席し、極真会館の新体制の発表と、遺族側の記者会見に対する見解が述べられた。この時の記者会見の内容を要約すると次のようになる、
「組織としては松井新体制で固まり、分裂することはあり得ない、記者会見を行なった娘さんたちに関しては、故人が死去した時にアメリカ在住だったこともあって、コミュニケーションが十分に取れず、そのために誤解が生じているが、我々が誠意を尽くして理解してもらうしかない。遺言状については現在家裁で審査中であり、有効か無効かは裁判所が決めることである。我々としては大山家と対立する意思はまったくなく、天皇家のような存在として、ずっと大事にしていきたいと考えている、ただし、今回の件について、遺族をたきつけた一部の支部長がおり、その人間に対しては厳重な処分を考えている」
 遺族側の記者会見は、正直言って、センセーショナルな内容ではあったもののかなり感情的であり、要旨がやや伝わりにくい感があった。それに対して、極真全館側の記者会見は冷静で理路整然としたものであり、勝負で言えば会館側の判定勝ち、といったところだった。この会見の数日後に、遺族を煽動したとして、北海道支部長・高木薫氏の除名処分が発表された。
 その三日後の六月二十六日に、国内のみならず世界各国から実に六千人の弔問客を迎えて、故・大山倍達極真会館葬が東京・青山葬儀場で行なわれた。その場で、六日前に記者会見を行なった恵喜さんと喜久子さんは、再びショッキングな行動を起こす。
 式場内では大内啓駄閏凖涸旭儖・后・鎮聰探・匳圧脹ゝ聴・¬_莢箸寮崢揺堝麌廖・侏イ瞭4・瓩箸い辰拭∪諺阿慮凌佑慮鰺Т愀犬旅C気鯤・譴覲導Δ・蕕猟ぬ箋劼・鸚覆靴董△・瓦修・某声阿料魑靴・弔泙譴討い拭・靴・掘∨寨茲覆蕕仄鮎譴虜彙鼎砲△襪呂困痢・凌佑琉箙析そこにはなぁγたのだ�」
 なんと故人の遺骨は式場の外で、次女・恵喜さんの肩に掲げられ、雨に打たれながら一般の弔問客を迎えていた。やがて式場を途中で退出してきた三女の喜久子さんが、恵喜さんの横に並ぶ。そんな二人の周囲を、百名以上の屈強な道場生が取り囲んだ。マスコミとの接触を封じるためと、弔問客の目から二人の姿を隠すのが目的だった。
 この模様が雑誌、スポーツ紙に報道されたのを最後に、遺族側は大きなアクションは起こしていない。
 では、遺族側は極真会館と和解したのか? 答えはNOである。むしろ日を追うごとに、極真会館、そして松井新館長への不信の念は深まっているようだ。
「最近、毎晩のように夢を見るんですよ。松井さんたちを絞め殺す夢を。こんなに人のことを憎んだのは、生まれて初めてです」
 これは取材の際に、三女の喜久子さんが言った言葉である。今年二十一歳になったばかりの彼女が、なぜこんな怨嗟の言葉を吐かねばならなくなったのだろうか。遺族たちはいったい何に対して怒り、何を望んでこのような過激ともいえる行動をとり統けるのだろうか。そして、ここまで彼女たちに疑念を抱がせるに至ったものは、いったい何なのだろうか。


極真会館の反論

 今回の騒動の鍵を握ることとなる遺言書の存在は、大山倍達が死去した当日に行なわれた記者会見の席上で明らかにされた。しかしその時点では、肝心の智弥子未亡人は、遺言書の内容はおろか、存在さえも知らされていなかったという。
「私は毎日主人の看病に行っていましたが、遺言書のことなんかひと言も聞いていません、主人が死んだ日に、記者会見で発表があったそうですが、じゃあ私だけが知らされていなかったことになりますね」
 結局、智弥子未亡人が遺言書を管理していた梅田嘉明氏からその存在を知らされたのは、夫の死から一週間以上過ぎた、五月六日のことだったという。夫を失ったばかりの、傷心の智弥子未亡人を慮ってのことだったのかもしれないが、このことも遺族が遺言書に対する疑惑の念を深めることとなる、ひとつの原因となった。
 さてここに、遺族側がその内容と作成過程に大きな疑惑を抱いている、問題の遺言書のコピーがある。この遺言書は大山倍達が死去する一週間前の四月十九日に、五人の証人の立ち会いのもとで大山倍達が口述し、それを極真会館の相談役で弁護士でもある米津稜威雄氏が筆記したとされているものである。
 遺言書の最後には、代理人となった前述の米津氏のほかに、梅田嘉明極真会館審議委員長、大山倍達とは長く盟友関係にあった故・柳川次郎の葬儀委員長を務めた黒澤明氏、元全日本王者で現在は岸和田市会議員を務める大西靖人氏、そして米津氏の息子で、大山倍達の晩年に私設秘書を務めた米津等氏の署名捺印がある。そして遺族側が言うとおり、確かに大山倍達本人の署名捺印はどこにもない。
 しかし、極真全館相談役も務める長島憲一弁護士によれば、
「民法では病気やケガで、本人自身が遺言書を作成することが困難な場合、三名以上の証人の立ち会いのもとに、代理人が口述筆記を行なうことが認められています。これを危急時遺言といいますが、この遺言書がまさにそれに当たります。遺族の方は本人の署名がないのがおかしいとおっしゃっていますが、危急時遺言の場合は署名があると、かえって無効になってしまうのです」
 つまり本人の署名捺印がないことは、この場合に関してはまったくおかしなことではないというわけである。
 また、今回の騒動の裏側で暴力団関係者が暗躍しているという噂のもととなった、山口組系黒澤組元組長・黒澤明氏(山口組から一和会が分裂した際に引退)の名前が証人の中にあることに関しては、山田雅俊極真会館城西支部長はこのように語っている。
「黒澤さんと大山総裁とは、戦後間もない頃からの古いお付き合いで、総裁が亡くなる前もずっと病院で看病に立ち会って下さいました。また、元暴力団の組長といっても、現在は引退して更生の道を歩まれているわけですよ。元暴力団ということだけで、人を疑いの目で見るのはどうかと思うんですが」
 遺族が誰も立ち会っていないため、疑いだせばキリがないのは確かだが、前述の極真会館側のコメントは、一応は納得できるだけの説得力を持っている。


遺言の中身

 では間題の遺言書の内容とは、いったいどんなものなのだろうか。
 遺言書は十四項目からなっており、第一項から五項までは、極真会館・国際空手道連盟(現状ではこれはほぼ同一のものと考えていい)と、それに関連する法人と会社の今後の運営についての指示が記されている。
 続く第六項から十二項では遺族に対するケアと、池袋の本部道場を極真会館に寄贈することなど、大山倍達個人名義の財産・負債についての指示。そして遺族は今後極真会館の運営に関わらなことなどが記され、残る十三、十四項には追記というかたちで、北海道と韓国にいる愛人と子供に対するケアについての指示が記されている。(次頁に全文掲載)
 下世話な考えをすれば、遺族が不満を持っているのは、北海道と韓国の愛人への処遇についてのように思えるが、智弥子未亡人はこれを言下に否定した。
「会館のみなさんはそのことに気を遣って私に遺言書を見せなかったとおっしゃるんですよ。でも私がいまさらヤキモチを焼くような年ですか。五十年近く連れ添って、外に子供がいるくらい何の不思議もない人だったことは、私がいちばん知ってますよ」
 このことに関しては、恵喜さんも喜久子さんもほぼ同じ考えを持っている。
 では、不満の原因が七項から十二項に記された財産・負債の相続と、遺族へのケアに関することかといえば、これも違うようだ。これらのことに関しては、むしろ遺言書の文面を見る限りでは、かなり遺族に有利な内容になっている。
 まず智弥子未亡人、長女の留壱琴(るいこ)さん、二女の恵喜さん、三女の喜久子さんに対して、会館側は毎月それぞれ百万円を支払うよう指示されている。また石神井の自宅、御宿の土地、湯河原の別荘などの不動産も未亡人と娘たちが相続。極真会館への寄贈が指示されている本部道場の土地と建物(登記は大山倍達個人名義)についても、相続税のことを考慮すれば、決して遺族にとって不利な内容とは思えない。
「文面のとおりにお金をいただけるんなら、こんな有り難い遺言書はないでしょうね。でも、母はともかくとして、私たちは働くことができますから。本部道場の建物と土地にしても、確かに遺言書どおり極真会館に寄付したほうが、金銭的には有利なこともわかっているんです。私たちが不満なのは、お金のことではないんです。遺言書そのものがインチキで、その作成に関わった人たちと、それによって動いている人たちが許せないと言っているんです」(恵喜さん)
 もっとも現在、遺言書に記された遺族に対するケアで実行されているのは、智弥子未亡人に対する月百万円の支払いのみ。娘たちへのケアや家のローンの支払いが行なわれていないばかりか、大山倍達の著書の原稿料や印税も、遺族のもとには入っていないという。これも遺族が極真全館側に不信感を抱く原因のひとつとなっている。


極真奨学会はなかった!

 このように遺族は、故・大山倍達の遺言書に対して深い疑惑の念を抱いている。だがそれは、ほんのささいなことの積み重ねからだったという。
「決して除名された高木さんに、何かを吹き込まれたからというわけではありません。遺言書の存在のことをなかなか教えてくれなかったこと。松井さんたちが母や私たちを避けているように見えたこと。密葬のときのお香典がどこに行ったのかわからなくなってしまったこと。いつも現金がいっぱい入っていた父のカバンがいつの間にか消えていたこと。ひとつひとつのことは、ほんのささいなことかもしれません。でも、それでいろんなことを調べていくうちに、とんでもないことがわかったんです」(喜久子さん)
 遺族の調査によって、遺言書の中にも出てくる財団法人極真奨学会が、昨年、大山倍達自身の手によって、消滅させられていたことがわかったのだ。
 極真奨学会とは、全日本大会などの入賞者に賞金を出したり、本部道場に住み込みで空手の修行をする内弟子の育成に関する業務を行なうために設立された財団法人である。
「毎年何万円かを役所に払えばいいだけなのに、どういうわけか父はその支払いを、三年ほど前から行なっていなかったんです。支払いの命令書が何度も来ていて、父も知っていたはずなんですが、なぜかそれをずっと無視していたんです。それで去年、とうとう財団法人極真奨学会は消滅してしまったんです。これは松井さんはもちろん、極真奨学会の理事長をしていた梅田先生も知らなかったことです。というよりも、極真会館の中でこのことを知っていたのは、おそらく父本人だけだったんじゃないでしょうか」(恵喜さん)
 大山倍達自身の手によって消滅させられた財団法人極真奨学会が、大山倍達自身の口述のもとに筆記されたという遺言書に出てくる。常識的に考えて、こんなことがあり得るだろうか。
 そもそも大山倍達が韓国籍から日本国籍に帰化した主な目的のひとつが、この極真奨学会の法人認可を取得することだったという。そうまでして手に入れた法人認可を自らの手で消滅させたこと自体が不可解なことだが、そのうえ、それを忘れて遺言の口述を行なうなどとうてい考えられないことのように思える。
 例えば遺言書の第一項には、極真奨学会が財団法人であることを前提として、その拡充を行なうことと、可能であれば、いまだに法人認可を受けていない極真会館と国際空手道連盟を吸収することなどが指示されている。
 どうしてこのような矛盾した遺言書が作成されたのだろうか。考えられるケースは次の三つである。
@本人が何らかの意図を持って、このような矛盾した内容の遺言を残した。
A本人の意識が混濁した状熊で口述が行なわれた。ちなみに当初の発表では、鎮痛剤の投与は行なわれていなかったとされていたが、遺族側がカルテを調べたところ、何度かモルヒネが投与されていたという。
B遺言書そのものが、第三者の手によって創作された。
 もっとも非現実的なケースである@の場合はともかくとして、AやBのケースであったとしたら、遺言書に記された娘の名則が違っている(遺言書の中で留壱琴さんは改名前の名前である京喜、恵喜さんは恵喜子と書かれている)ことなどの、いくつかの細かい疑問点も納得がいく。もちろんこのような遺言書がまったく無効であることは言うまでもない。
 しかも、Bのケースであったことが証明された場合はもちろんのこと、Aのケースの場合でも、証人として名前を連ねている五名は、私文書偽造などの罪に問われる可能性すら出てくるのだ。


泥沼の対立

 現在、この遺言書は家裁で確認手続き中であり、有効か無効かの審判が下るのは、当初の予定よりもかなり伸びて、九月の末くらいになるということである。
「私たちの弁護士さんの語では、かなりいいかげんな内容の遺言書でも手続きはほとんどパスしてしまうということなので、そうなった場合は、改めて遺言書の無効審判を起こす予定です」(喜久子さん)
 しかし、もしも遺族が考えているように遺言書が偽造されたものであったとすれば、いったい誰が何の目的でそのようなことを行なったのだろうか。
 空手界に詳しい人間によれば、極真会館のように文部省管轄下の体育協会に所属せず、町道場を母体とした団体の場合、その利潤はそんなに大きなものではないという。
 極真会館の主な収入源としては、道場生の入会費、道場使用料(月謝)、昇級・昇段における認可料、そして大会の入場料などがあるが、それらを合わせても、本部に集まってくる金は、多くて年間に二〜三億円のレベルのものだという。そこから職員や指導員の人件費、会館の運営費まで出していかなければならない。
 門弟数一千二百万人というのも、あくまで設立以来の累積入門者数で、現時点での実質的な道場生数となると、その十分の一以下になると言われている。そう考えると、空手団体としての極真会館は、大きなリスクを背負ってまで"乗っ取り"。を画策するほど、うま味のある組織であるとは思えないのだ。
 しかしその一方で、遺族や何人かの関係者の証言によれば、大山倍達個人は国内だけでなく、世界各国に広がるその広範なコネクションを利用した利権をいくつか持っており、それによってかなり多額の収入を得ていたという。道場生による選挙の票まとめから、企業の海外市場進出の際のコーディネートまで、大小さまざまなアングラ・マネーが大山倍達のもとに集まっていたというのだ。
 だとすれば、そうした利権目当ての行動と考えられないこともないが、それらがどれほどのカネを生み出すものであったかは、遺族でさえもほとんど把握していないという。
 どちらにしても、今や遺族の極真会館に対する不信感は、まったく埋めがたいものとなってしまっている。極真会館側は遺族に対して理解と話し合いを求めているが、遺族は会館側を"乗っ取りの一味"とみなし、あくまでシロクロの決着を付けようとしている。
 遺族側の記者会見後、遺族と松井館長が何度か話し合いの席についている。しかし、遺言書の無効を前提として話を進める遺族と、有効を前提として話を進める松井館長とでは、ほとんど接点を見い出すことができず、結局はもの別れに終わった。
 遺族は最終的にどのようなかたちになることを望んでいるのだろうか。
「とにかく松井さんたちとは一緒にやっていくつもりはありません。遺言書の偽造を一日も早く証明して、あの人たちには本部道場から出ていってもらいたいんです。建物の相続税がかかるならば、石神井の家を売ってでもそれを払って、父が建てたあの建物を守りたいと思っています。とにかく、あの人たちに父が残したものをこれ以上好きにされるのは、絶対に許せないんです」(恵喜さん)
 *
 実は、取材をすべて終えた今、自分はとんでもないことをしてしまったのではないかという自責の念にかられている。万一、この記事がきっかけとなって極真会館が分裂してしまうようなことになったら、私は自らの手で自分のもっとも愛するもののひとつを破壊してしまうことになるからだ。
 中学生の時に『空手バカ一代』(原作・梶原一騎)を読んで以来私は今もって大山倍達と極真空手の熱烈なファンである。上京してからは、毎年秋の全日本大会は欠かさず会場で観戦してきた。
 そんな私にとって大山倍達の死は大きな衝撃であったし、その後の遺族と極真会館の確執も、単純に面白がることはできなかった。だからこそ、この騒動の真相が知りたかった。いったい誰の言っていることが正しいのかを知りたかったのだ。この記事の企画を本誌に持ち込んだのも、そんなごく私的な動機からだった。
 取材の結果は、読んでのとおりである。大山倍達の遺言書とされる文書については、どうしてもある疑惑の念を抱かざるを得ない。勝手なことを言わせてもらえば、それは取材を行なった私自身にとっても辛い緒論だった。
 私は、自分の中の金閣寺を焼いてしまったのかもしれない。

追記
 極真会館側を代表して、何度か当方の電話インタビューに応じてくれた山田雅俊氏には感謝の言葉もない。当方の不愉快な内容の質問に対しても、山田氏はいつも誠実かつ紳士的な態度で答えてくれた。山田氏にはこの場を借りて、改めて感謝の意を表したい。
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2006年06月17日

大山倍達未亡人・独占取材! 極真会館の跡目争いとゴッドハンドの生涯(前編) (宝島30 94年9月号)

大山倍達死後、その遺言が偽造されたものだと訴える遺族たち。
これまで頑なに沈黙を守ってきた智弥子未亡人が
巷間流布されるさまざまな噂に対して、はじめてその重い口を開いた!

石山永憲


 六月二十六日、雨のそぼ蹄る青山葬儀場を訪れた弔問客の人々は、異様な光景を目にすることとなった。葬儀場の庭に駐車した車を、約百名の屈強な若者が取り囲み、その人垣の中に骨箱と位牌を抱えた喪服姿の女性が一人、雨に打たれながら立っていた。
 この日、青山葬儀場で行なわれていたのは、四月二十六日にこの世を去った大山倍達の、極真会館主催による全館葬だった。そして骨箱を抱えていた二人の女性は、大山倍達の次女の恵喜さんと、三女の喜久子さんである。その二人が雨に打たれながら抱えていたのは、本来ならば葬儀場の祭壇に置かれているはずの大山借達の遺骨だった。世界各国から約六千名の弔問客が集まった実の父の葬儀で、なぜ二人の娘はこのような異常とも言える行動をとらなければならなかったのだろうか。


偽造された遺言状?

 創始者大山倍達を失った今、極真会館は後継を巡るお家騒動に揺れている。それが露見したのは六月二十日に、恵喜さんと喜久子さんがマスコミ関係者を集めて、抜き打ちで行なった記者会見からである。二人の娘は父、大山倍達が残したとされる遺言の作成過程に、あまりに疑わしい点が多く、偽造の可能性が高いことから、遺言そのものの無効を訴えた。この記者会見はテレビ、雑誌、スポーツ紙などに取り上げられ、一気に極真会館の内紛が露見することとなる。
「確かに記者会見を開いたり、父の葬儀の場であんなことをやったことで、たくさんの人たちに迷惑をかけてしまったのは申し訳ないと思っています。でも、あそこまでやらないと、今の私たちの立場や考えは、誰にもわかってもらえないと思ったんです」
 大山倍達が死の一週間前に口述筆記させたとされる遺言には、極真会館の今後の運営、自分の後継(元世界王者の松井章圭を指名)、家族に対するケア、そして追記というかたちで、韓国と北海道にいる自分の愛人と子供に対するケアのことが記されている。しかしその遺言には肝心の本人の署名がない。この件については極真全館の山田雅俊・東京城西支部長は次のようなコメントを出している。
「遺言を作成した時点て総裁はかなり衰弱しておられましたので、緊急遺言ということでこういう形式のものになりました。こういう形式の遺言は法律上も認められております」
 それに対して大山倍達未亡人の智弥子さんは、憤慨しながらこう答える。
「前日まで主人は自分でトイレにも行っていたんですよ。自分の名前すらサインできなかったということは絶対にありません」
 ちなみに現在この遺言は、家庭裁判所の審査待ちである。ただし遺族側によれば、かなり偽造の可能性の高い遺言でも、家裁の審査はパスしてしまうということで、審査が下った後に、改めて遺言の内容について民事訴訟を起こす予定だという。
 このように極真会館と大山家は泥沼状態とも言える対立を続けているが、この対立を巡って現在、周囲ではさまざまな憶測や噂が乱れ飛んでいる。
 そのいくつかを例にあげれば、関西の政財界の大物がバックにからんでいる、背後で暴力団関係者が暗躍している、どうも統一協会も関係しているらしい……。
 これらの噂の中には、おそらくまったく見当違いのものもあるだろう。極真全館にとっても遺族側にとっても、このような噂がひとり歩きし、増幅していくことこそがもっとも憂慮すべきことではないだろうか。そこで本稿では、従来されてきた報道よりもいま一歩踏み込んだかたちでの取材を行ない、これらの噂の真否を検証していきたいと思う。
 さて、今回の騒動について詳しく語る前に、あらためて大山倍達という人間の一生を検証しておく必要がある。それも、敢えて今まで語られなかった部分にまで光を当てていくことにしよう。それを避けていては、今回の騒動や現在流れている噂の数々の底辺にあるものが解明できないからだ。


毛利松平と柳川次郎

 今回の取材にあたって、大山倍達の人生の最大の理解者であり、また証人でもありながら、夫の死による心労で今までマスコミに対して沈黙を守っていた智弥子夫人が、初めてインタビューに応じてくれた。
 俳優の藤巻潤の実の姉である智弥子さんが大山借達と結婚したのは、戦後の混乱期、一九四六年のこと。空手修行のための山籠りや海外武者修行でほとんど家に戻らぬ夫の留守を守りつつ、三人の娘を育て上げた。夫の収入がなかった時期には、質屋通いをしながら生計を支えたこともあるという。
「今の本部道場ができた頃、ヤクザみたいな人がいっぱい出入りしてたんですよ。母はこれではいけないというんで、自分一人でそういう人たちをほうき片手に、みんな追い出しちゃったそうです」(三女・喜久子さん)
 智弥子夫人の口から語られる大山借達の生涯は、ある意昧では脚色や創作の多かったという『空手バカ一代』(梶原一騎原作)以上にドラマチックなものだった。
「本当に大山倍達と暮らした五十年間は毎日、いや一秒一秒がドラマでした。本当に凄い人でしたよ。ヤクザかといったらそれは違う。かといって生真面目な人間かといったらそれも当たらない。大山倍達をただの空手バカという人もいますけど、私は決してそうは思いません」
 大山倍達が一代で築き上げた極真会館は、国内だけでなく全世界に支部を持ち、門下生の数は今や累積で一千二百万人という膨大な数に達したという。夫人の語るとおり、大山倍達が単なる空手バカであれば、牛を素手で殺す超人的な強さを身につけることはできても、極真会館をここまで巨大な組織に築き上げることはできなかっただろう。
 大山倍達には極真会館を築き上げていく過程で、決して忘れることのできない二人の協力者がいた。
 一人は極真会館会長を長く務めた元衆議院議員の毛利松平。そしてもう一人は、山口組の中でももっとも戦闘的な組織と言われた柳川組組長として、戦後のヤクザ世界にその名を残した柳川次郎(晩年は魏志と改名)である。
「毛利先生との出会いなんか本当にドラマでしたよ。戦後間もない頃に、毛利先生がビジネスのトラブルに巻き込まれて、ある所に監禁されてしまったんですよ。そのまま放っておけばリンチされて殺されてしまうところだったらしいんです。その場に主人が用心棒みたいな感じでいたんです。でも毛利先生が命が危ないにもかかわらず、とても堂々としていらしたんで、『こういう人を殺してしまっては日本のためにならない』と思って、主人と二人きりになった時に逃がしてあげたんで
すね。主人は最後まで自分の名前は名乗らなかったんですが、毛利先生は他の人から主人が『大山』と呼ばれていたのを覚えていたそうです」
 この時に命を救われたことがきっかけとなり、毛利松平は極真会館会長(一九六四年の発足当初は副会長)として、大山倍達を生涯後援していくことになる。現在の本部道場も、毛利氏の紹介による銀行の融資がなければ、あわや人手に渡る一歩手前だったという。
 さてもう一人の協力者である柳川次郎との出全いは、何人かの証言や大山倍達の著書にある記述から、終戦直後のことだったようだが、今回の取材でははっきりした時期やきっかけをつかむことはできなかった。ただ、柳川次郎は一九四六年六月に強盗容疑で逮捕され、その後六年間服役しているため、出会ったのはそれ以前ということになる。
 柳川次郎こと梁元錫が同胞の仲間とともに、神戸三宮の焼け跡で食うために喧嘩三昧の日々を送っていた頃、大山倍達こと崔永宜もまた空手の道を志しつつも、日々の糧を得るためにさまざまなことに手を染めていた。腕っぷしを買われて、ヤクザの用心棒をやったことも少なからずあったという。
 そんな中で故国に帰還することなく、日本で"在日"。として生きていくことを選んだ二人は出会い、生涯を通じての友としての契りを結ぶことになる。
 大山倍達が自らの肉体の強さを極めることによって、日本社会の中でのし上がっていこうとしたのに対し、柳川次郎は"極道"として、非合法の世界で生き抜こうとした。
 対照的に見える両者の生きざまではあるが、ともに人生を生き抜く上でのテーマは力だった。ある意味では大山倍達と柳川次郎は、戦後の日本社会において、生産手段も教育機会も奪われ、差別の中で生き抜かねばならなかった"在日"の、合わせ鏡のような在存であったと言えるのではないだろうか。
 柳川次郎は一九六九年に柳川組を解散した後、ヤクザ世界から引退して日韓友愛親善会を設立し、民間外交の旗手として活耀した。その時期から晩年まで特別相談役として極真会館に関わり、海外支部設立の際には少なからぬ助力を盟友大山倍達に与えたという。


田中清玄との出会い

 ここに昨年十月に開催された、極真会館主催の第二十五回全日本空手道選手権大会のパンフレットがある。このパンフレットを見て驚かされるのは、大山倍達と極真会館の驚くべき人脈の広さである。
 この時にはすでに毛利松平と柳川次郎は他界していたが、彼らの生前に劣らぬ多彩な面々が顧問、相談役に名前を連ねている。
 政界からは会長には福田赳夫。顧問に大内啓伍、海部俊樹、倉成正。相談役にも亀井静香、河野洋平、中山正輝、三塚博といった大物政治家が、呉越同舟といった感じでずらりと並んでいる。
 この年の大会には名前こそないものの、極真会舘の過去の歴史を紐解くと、歴代の自民党の大物政治家が総登場といった感がある。まず極真会館創立時の会長が佐藤栄作。顧問には三木武夫、園田直、竹下登、安倍晋太郎といった自民党の総理大臣経験者、派閥の領袖クラスの面々が並び、相談役にはあの田中角栄も名を連ねたこともある。
 確かにスポーツの大会に、このようなかたちで政治家が役員として名前を連ねることは決して珍しいことではない。しかし、文部省管轄下にある体育協全に所属していない(体協には寸止め系の全日本空手道連盟が所属)極真会館の大会に、これだけの政治家が名前を連ねるのは不可解といえば不可解である。
 この疑問については、大山倍達の古い弟子の一人が答えてくれた。
「空手の道場、とくに極真のように町道場を母体としている場合、けっこう有力な集票母体になるんですよ。道場生には二十代前半の、本来なら浮動票となる年代の人間が多い。しかも上下関係がしっかりしているから、ほんの少しの運動でかなり確実な票を期待できるというわけです。極真の国内で最初の支部というのは愛媛支部だったんですけど、愛媛というのは毛利先生の選挙区なんですよね。ですからそこに支部長として最初に派遣された人は、支部の運営だけでなく、毛利先生の身辺警護と選挙運動の手伝いもするよう、大山先生から命令を受けていたそうです」
 また政治家以外では戦後の政財界に多大な影響力を持った田中清玄も、ここ十年は極真会館の顧問、相談役として名前を連ねていた。田中清玄が表立って極真会館に関わったのは比効的最近だが、大山倍達との付き合いはかなり古くからのものだった。
「私と主人が結婚したのは、昭和二十一年の六月のことでした。式は、井の頭公園でお弟子さんの前でボートに乗ってそれで終わり(笑)。その後、主人と一緒に田中(清玄)先生のところに結婚のご報告に行ったんです。それ以前から主人は田中先生にはずいぶんお世話になっていたみたいですね。その時に田中先生はこうおっしゃったんです。『大山さん、結婚すると言っても、どこに住んで何をやって食べさせるんだ。そんなこともちゃんとできないで、人の大事なお嬢さんを貰いましたと言っても、人生は通らないよ。君がちゃんと生活できるようになるまでは、奥さんは私たち夫婦が預かっておきます。家庭を持てる状態になったら、いつでも迎えにいらっしゃい』で、それから一年近く田中先生のところで坊ちゃんのお守りのようなことをしながら、お世話になったんです」
 毛利松平、柳川次郎、そして田中清玄。いずれも大山倍達の生涯を通じてのよき理解者であったが、若き日に彼らの知遇を得ていたというあたりが、彼の持つ運命の強さを感じさせる。
 そんな致々の出全いを五十年近く側で見てきた智弥子夫人は、当時を回想しながらこのように語った。
「主人は本当に並の星の下に生まれた人じゃなかったですね。あんな破天荒な行き方をしたのに、理解して応援してくれる人はたくさんいましたからね」


統一教会に関する噂

 大山倍達が統一協会の信者であるという噂は、ずいぶん前に耳にしたことがある。
 実際、統一協金とは不可分の存在である世界日報は、古くからの全日本大会のスポンサーであるし、一九八四年に行なわれた第三回世界大会には、日本統一協全会長の久保木脩己が、大全特別相談役として副委貝長の席に座り、顔写真入りでパンフレットにメッセージを寄せたこともある。
 その後の大会では役員から久保木の名前こそ消えたものの、世界日報は現在でも極真会館の有力なスポンサーの一つとして名前を連ねている。
 極真全館、大山倍達と統一協会の繁がりは古く、時期的には第一回全日本大会が行なわれた一九六九年より少し前から付き合いが始まったようだ。両者の橋渡し役となったのは、現在は極真を離れアメリカで他流派を興しているO兄弟である。O兄弟の父親は当時の日本統一協会にあって、金銭の出入りをかなり自由に任されるほどの大物で、日本におけるコネクションが欲しかった統一協会と、スポンサー不足に悩んでいた極真全館との利害が一致し、ある種の協力関係が生まれた。
 では実際に大山倍達が信者だったのかという問いに対しては、智弥子未亡人は言下に否定した。
「確かに主人は統一協全に何人か友人がいました。久保木さんがよくうちに訪ねてきた時期もあります。まあ、どっちが呼んでたのかは知りませんけどね。最初はおだてられて協力してたんじゃないですかね。でも、主人が信者でなかったことは断言できますね。もし本当に主人が信者だったのなら、協会からお金を借りるなりして、新しい本部の建物だってもっと早く建っていたはずですよ。それに主人がお世話になっていて、こんなことを言うのも何ですが、うちは私も娘もみんな統一
協会が嫌いでしたから」
 智弥子未亡人はこんなエピソードも語ってくれた。
「何年か前に協会の方が会館に来て、主人に壷を持たせて写真を撮っていったことがあったんですよ。そしたらその写真が霊感商法みたいなことをやっている会社の広告に使われてしまって。『大山総裁は統一協会の信者なんですか』という電話が会館に何本もかかってきて。あの時は本当に怒ってらっしゃいましたよ。そんなこともあって、ここ最近はあまり協会の方とのお付き合いも少なくなっていたようてすね」
 しかし、昨年十月に行なわれた全日本大会のパンフレットを見る限りでは、極真会館と統一協会の関係はいまだに現在進行形である。後援には世界日報の名前があり、相談役の中にも日本統一協全の実力者である、梶栗玄太郎の名前が見える。
 ある意味ではこれまで付かず離れずの関係を続けてきた極真会館と統一協会だが、大山倍達の死によってそのパワーバランスに狂いが生じつつあるという説もある。これをきっかけに関係は薄れていくのか、それとも大山倍達存命中には考えられなかったような介入を許すのか。取材を行なった何人かの関係者からは、後者の事態を危惧する声が圧倒的に多かった。


韓国と日本

「主人は国籍なんて自分の好きなように、生きやすいように選べばいい。今は日本に住んで、日本の人たちにお世話になって、生活の地盤もこっちにある。だから日本を大事にするのは当たり前だ。また、韓国の故郷だって自分が生まれ育った場所だから、さびれれば淋しいし、切れないものはあるっておしゃっ
てましたよ」
 その著書を読んでも、大山倍達は日本人以上に日本的な精神を大事にした人間だった。その一方で、晩年まで自分の故国である韓国から来た人間には親身になって世話を続けたという。
「本当に大変でしたよ。頼まれれば嫌と言えない人だったので、いつも家族以外の人がうちに寝泊まりしてましたからね。日本人の人もいましたけど、やっばり韓国の人が多かったですよ。あちらから絵やバレエを習いに来た若い人たちをうちでお世話して」
 大山倍達は一九六八年に日本国籍に帰化している。智弥子夫人によれば自分から望んでのことではなかったようだ。
「法人認可や土地登記の問題で帰化しないと面倒なことが多いから、頼むから大山君、帰化してくれと毛利先生に頼まれたんですよ」(智弥子夫人)
 日本人としての大山倍達。韓国人としての崔永宜。一人の人格の中に存在しながら、いずれも人一倍国を愛した。だからこそ当人の内面には少なからの葛藤があったことが想像できる。
「父はよく私たちに言ってました。『君たちは日本人なんだからね。日本人の心を忘れてはいけないよ』って。そのくせ怒った時なんか急に韓国語で怒鳴りだしたりして。父が韓国人だったということを聞いたのは、私が十八歳くらいの時ですね、道を歩いていた時に急に『お前、知ってるのか』って。私は小学校からインターナショナル・スクールに通ってましたから、そんなことは大したことじゃないと思ってたんで、『知ってるよ』って言ったら黙り込んじゃいましたけどね」(三女の喜久子さん)
 大山倍達は四年に一度開催される世界大会の際には、代表選手を前にして「日本が優勝できなければ、君たちは腹を切れ」という訓示を行なうのが常だった。ある意味では過剰なまでの国粋主義者であったと言える。
 その一方では、自分の同胞である人間には、やはり特別な感情を抱くことが多かったようだ。実際、大山倍達が遺言で後継者に指名したとされる人物が、韓国籍の松井章圭という発表がされた時にも、「やはり最後は同じ血の人間を選んだか」という感想を抱いた関係者も少なからずいたという。
 生涯韓国と日本という二つの祖国を愛し続けた大山倍達。しかしいずれの祖国への愛も、あまりに大きすざたがゆえに、大山倍達はある意味で、最後までボヘミアンとしての生涯を全うせざるをえなかったように思える。


新興宗教の教祖

 大山倍達という人間をここまでいくつかの角度から眺めてきたが、私自身が感じたことは、彼が新興宗教の教祖に非常に近い素養を持った人間であるということだ。
 実戦空手という概念は、宗教で言えば現世利益に近いものである。新興宗教の多くが、あるかないか分からのあの世のことよりも、現世での利益をアピールしたことによって、数多くの信者を獲得していった。同じように大山倍達は、実際にケンカに強くなるということを入口に、全世界に一千二百万人の弟子を持つに至った。
 現世利益といえば、以前に大山倍達を取材したライターがこんな話をしてくれた。
「私が取材した時には、白帯の稽古の指導を大山さんがやっていたんですけど、稽古中に延々と言い続けているんですよ。『強くなりなさいよ、強くなったら綺麗な彼女ができるからね。綺麗な奥さんが来るからね』って。約二時間の間、それを言い続けていたんです」
 また、生前に大山倍達と付き合いのあった古い知人はこんな証言をしてくれた。
「大山さんには怖いもんなんかないでしょうって聞いたことがあるんですよ。そしたらあるよって。何と答えたと思いますか。食えないことがいちばん怖いよって。大山さんはしみじみした表惰でこう答えたんですよ」
 劇画に登場する大山倍達は、あくまでストイックな武道家として描かれていた。しかし現実の大山倍達はあくまで人間的だ。戦後間もない時には生きるために非合法なことにも手を出し、組織を運営するためには多少ヤバイ宗教とも付き合う。
 大山倍達が生涯の師としたのは、宮本武蔵だった。しかし大山倍達は知っていたのではないだろうか。あれだけ武術を極めた武蔵が目標としていたことは、あくまで好条件での仕官だったことを。そしてついに生涯満足のいく仕官の口には就けなかったことを。
 人は大山倍達のことを"ゴッドハンド"と呼んだ。武道、格闘技の世界においては、これほどのカリスマ性を持ち、神に近い存在として語られる人間は、大山倍達をもって最後となるだろう。
 しかし、現実の大山倍達はあくまて人間的すぎるほど人間的で、それゆえに周囲の人間を引きつけ続けた人間だったのだ。そしてそのあまりに広範囲な人間関係が、今回の騒動の伏線となったのだった。(つづく)
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2006年06月16日

「朝鮮人」としての『空手バカ一代』 (宝島30 94年7月号)

崔永宜はなぜ、大山倍達と名乗ったか?
極真空手の創始者大山倍達が亡くなった。
日本のマスコミが触れなかった彼の民族意識を『空手バカ一代』の裏に読み解く。

きむ・むい(ライター)

 四月二十六日、大山倍達が肺癌で死去した。「梶原一騎氏原作の『空手バカ一代』の主人公で、国際空手道連盟総裁、極真会館館長の大山倍達氏が……東京・中央区の病院で死去した。七十歳だった。(略)
 韓国ソウル生まれ。一九四七年に戦後初の全日本空手手選手権で優勝。牛を素手で倒すなどの修業を続け、海外でもプロレスラー等各種の格闘技家と試合。手刀でビールびんを切り捨てる技は『神の手』と称された。(略)
 六四年、空手界の常識だった寸止めをやめ直接相手を倒すフルコンタクト(直接打撃制)を取り入れた極真空手を旗揚げし、国際空手道連盟を創設した(略)」(四月二十七日付朝日新聞)
 今や全世界に千二百万人もの門弟を持つ極真空手の創始者であった彼の死は、格闘技、スポーツ界にとどまらず、一般各紙でも報じられた。しかし、韓国ソウル生まれであることは触れられていても、彼自身が韓国人であったことに言及した記事は、少なくとも僕が探してみた限りでは皆無であった。たしかに後に日本に帰化しているとはいえ、まったく触れないとは……。
「たしかに私は韓国で生まれました。本名はチェ・ヨンイ(崔永宜)だ。満州、韓国で育って十六歳で日本軍の兵隊として山梨県の部隊に入隊したんだ」
 生前の大山倍達自身、スポーツ誌『Number』八九年五月二十日号)のなかでそう
認めている。それは、高見沢秀の「もうひとつの『空手バカ一代』というルポで、日本における梶原一騎・原作の『空手バカ一代』と同じく、大山倍達を主人公にした『大野望』という劇画が韓国に存在するという事実の報告から入って、日韓の「大山倍達像」の共通点と相違を考察した好編である。この『大野望』は韓国でベストセラーになり、この劇画を通して韓国人は誰もが在日同胞の英雄として、大山倍達の名を知っている。
 日本でも、現在、二十代後半から三十代になる男たちに、初めて大山倍達の名を教えたのは『空手バカ一代』だったはずだ。大山倍達の死をきっかけに、ぼくは、十何年ぶりかに『空手バカ一代』全巻を読み直してみた。そして、大山と梶原一騎が紡いだ伝説のなかに隠された、在日同胞の真実の一片を捜してみようと思う。


マス・オーヤマは何と闘っていたのか?

『巨人の星』の星飛雄馬、『あしたのジョー』の矢吹丈、『タイガーマスク』の伊達直人。一九七〇年前後に少年たちを熱狂させた梶原劇画のヒーローたち。マス・オーヤマもその
一人だが、他の主人公たちと決定的に違っていたのは、少年たちがただ憧れるだけでなく、こぞって彼のマネをしたことである。
 本人の大山倍達でさえ全盛期の二十代でしか出来なかったという秘技中の秘技「三角飛び」がなぜか全国の小学校の校庭で乱れ飛び、手刀のビールびん切断をマネしようとして(コーラやバヤリースのびんで代用したものだ)手にケガをするヤツが続出した。『空手バカ一代』がテレビアニメになった後は、柔道部に入る者がガタ減りになり、その代わりに流派は何であれ街の空手道場に入門を志願する者が激増したという話も聞いた(そして、厳しい稽古に耐え切れずまたたく間にみんなやめてしまったというオチもつく)。
 なぜ、マス・オーヤマは、こんなにも強く少年たちの心を魅きつけたのだろう。
 まず、なによりも大きいのは、彼が実在の人物であるという点だ。
『空手バカ一代』は、彼がアメリカ修行中、単身マフィアのオフィスに拉致される場面から始まる。絶体絶命の境地にあって、ナイフとピストルを突きつけてくるマフィアどもを彼は「孤拳」「正面蹴り」など、空手の技を用いて一瞬のうちに倒してしまう。
「孤拳とは、コブシを握らず、手の甲の一番固い部分で打つ技術である(中賂)コブシを握ったら相手は警戒するが、孤拳なら相手は無防備に近寄ってきてくれる」
「人間は、顔を攻撃されると後ろにのけぞり、腹を強打されると前にうずくまる習性がある(中賂)腹を狙ったのは、相手がうずくまることで、その後ろにいる敵の障害物となってくれるからである」
 大意で引用しているので文章の正確さは欠いているかも知れないが(以下同)、マス・オーヤマが浪花節的なド根性"ではなくあくまでも自らの理論に基づいた空手技術で闘っていることはおわかり項けると思う。すでにこの時点で彼は、大リーグボール一号や、フジヤマ・タイガー・ブリーカーの荒唐無稽さとは無縁の存在だったのである。
 格闘技ブームの現在でこそ、漫画にも高等テクニックの理論解説が入るが、『空手バカ一代』が週刊少年マガジンに連載されていた七〇年代当時では、それはまったく画期的なリアリズムだったのだ。
 しかも、大山ケンカ空手は、ボクシングやプロレスといったスポーツではなく、街場の喧嘩(ストリートファイト)で通用する実戦格闘術である。強くなりたいと願う少年たちにとって、マス・オーヤマは、現実に現れた救世主であった。もし
かしたら、ぼくにも憎いいじめっ子のあいつをやっつけることができるかもしれない−−。
 男の子の心を虜にするには、ただ単に“強い”だけではいけない。むしろ、同じ“強さ”でも、体制に守られたそれには、少年たちは拒否の態度を示す。例えば、大相撲の若・貴兄弟はギャル人気を勝ちえることはできても、少年のヒーローにはなりえない。少年の心情を捕らえて離さないでおくためには、もう一つの要因−−“試練”が必要なのだ。
 "逆境からのチャレンジ"は、梶原劇画に共通したプロットである。飛雄馬は花形やオズマ、ジョーは力石、タイガーは馬場・猪木に己の弱さ小ささを思い知らされ、その悔しさをバネに血の滲む努力をし、「強くなる」。
 しかし、この原稿のために『空手バカ一代』全巻を読み返していて、ぼくはあることに気づいた。
『空手バカ一代』の主人公・大山倍達に限っては冒頭からとてつもなく強いのである。コミックス第一巻の半ばで、早くも空手日本一の座についてしまうくらいだ。その後も、"赤サソリ"の異名で怖れられたプロレスラー、タム・ライス等、たしかに続々と強敵は登場するが、全編を貫くライバルはついに登場しない。にもかかわらず、このマンガのサブタイトルは「激闘!大山倍達伝」である。では、大山倍達−−マス・オーヤマが生涯を通じて闘っていた相手とは、いったい何なのだろうか?


なぜ、在日だって言ってくれない

『空手バカ一代』への思いは、やはり、とりわけ、彼が同胞であることを知った在日少年たちに強かったに違いない。
 ぼくは伊豆半島のイナカに生まれ育った在日二世である。東京や大阪と違い、イナカには在日のしっかりしたコミュニティはない。
『空手バカ一代』の愛読者であったが、より身近に感じるようになったのは、小学校五年の夏、民族学校主催の夏期学校に参加してからである。
 夏期学校とは名ばかりのこじんまりとしたもので、地域に住むせいぜい十人くらいの生徒を教えるために、夏休みに民族学校の生徒が講師として派遣されて来る。そこで「カギャピョ」(ハングルのイロハのこと)を習ったり、先生を囲んで雑談をしたりする。偉大な金日成主席の革命業績とやらの時間もあったけど、まあ今回はそれは置いておこう。
 ぼくたちのところにやって来た女性講師は、あるとき、やわらかな大阪弁でこう教えてくれた。
「在日同胞でも、立派な人はたくさんいてはいるんよ。何にもガッカリすることはないんよ。歌手の西城秀樹なあ、あの人かて同胞やし(ここで女の子たちが"え〜っ!と言った)ジョニー大倉がそうやろ。ロッテの張本のことはみんな知ってるやろうし、空手の大山倍達かてそうなんや」
 二学期が始まって学校にいくと、相変わらず、「空手バカ一代」ごっこがはやっていた。ぼくはみんなに、こう言ってやりたい気持ちになっていた。−−マス・オーヤマは、ウチの国の人間なんだぞ!
 ぼくの中で、この漫画へのそれまで以上の愛着、大山倍達という空手家に対する敬愛の念がそれまで以上に強く湧いてきていた。
 だが、彼が在日同胞であることを知ったがために、従来にはなかった寂しさも持たざるを得なくなった現実があったのも、また事実だった。
 −−なぜ、彼は、一言、自分が在日だと名乗ってくれないんだろう。なぜ、俺の本名はチェ・ヨンイだと言って、ぼくたちに希望を与えてくれないんだろう……。
 大山倍達に限らず、力道山光浩にしても、張本勲にしても、戦後の日本スポーツ界をリードしてきた同胞たちは、なぜかみんな通名(日本名)ばかりを用い、いまひとつ、ぼくたち在日少年の「味方」になりきれてくれていなかったのだ。彼らのうちの一人でも、堂々と本名宣言をしてくれれば、ただそれだけで、どれだけの数の在日少年少女が精神的に救われたことだろうか。
 ところが、「空手バカ一代」で全編を通して強調されるのは、民族は民族でも日本民族の方、もっぱら「大和魂」であり「古き良き日本の心」なのである。


「日本人の血」?

 特にそれは、コミックス四巻からスタートするアメリカ武者修行編において著しい。少し粗筋を追ってみよう。
「第一回全日本空手選手権」で優勝した大山倍達だったが、その実戦ケンカ空手は「邪道」呼ばわりされ、四国で闘牛を倒し、北海道でヒグマと闘っても、日本の空手界に受けいれられることはなかった。むしろ、「牛には催眠薬が注射してあったのだ。あれなら勝てて当然、大山は空手日本一どころかとんでもないペテン師よ」
 といったデマが流布されてゆく。自分が誹誘されたことよりも「武道の心」を失っていた日本に絶望した大山倍達は、アメリカヘ武者修行の旅に出ることにする。
 柔道の遠藤幸吉とともにアメリカに着いた彼を待っていたものは、反日感情に満ちた白人の世界だった。初日からマス・オーヤマは演武のビールびん割り、ブロック割りで観客の度肝をぬくが、すぐに憎悪にさらされる。
「キル・ザ・ジャップ!!」
「リメンバー・パールハーバー!」
 御当地アメリカの善玉レスラーたちは、ファンのヒステリックな声援に応えるべく、次々に大山に闘いを挑むが、ブロック割りでは自らの拳を痛め、試合では数分で病院送りにされてしまう。やがて、マス・オーヤマの名は、アメリカ社会で差別と貧困に喘いでいた日系人たちの英雄となっていった。
 どうにかアメリカ武者修行も軌道に乗ってきたころ、マス・オーヤマは、あるコーヒーショップでボーイとしてコキ使われている「トシオ」という日系少年と知り合う。トシオは、マス・オーヤマに敬意を払わない。それどころか、涙ながらに食ってかかる。
「日本人や日系人でうまくやっているヤツなんて、何かずるいことをしているに決まっている!」
 アメリカ社会の厳しい現実を突いたこの一言は、マス・オーヤマの胸にずしりとこたえる。トシオは十五歳の若さで下層労働者として辛酸をなめ、その両親も働いても働いてもいっこうに報われない人たちだったのだ。オーヤマは、自分一人が日本の武道家として名をあげればそれでよいのか、という疑問にとらわれる。
 実はそのとき、オーヤマの飲み物にはクスリが混入されていた。このまま連戦連勝をされてはかなわないと考えた悪徳プロモーターの仕組んだ罠である。その夜の試合のころになると、ちょうどクスリは効き目を発揮し、カラテ・デビルことマス・オーヤマは無様な敗北を喫することになっていたのだ。
 ところがオーヤマは、いつも通り危なげなく勝利をおさめてしまう。相手レスラーは「そんな馬鹿な」という顔でKOされ、ファンは落胆し、プロモーターどもの間では責任のなすりあいが始まる。
 すべての陰謀が明かるみに出た後、ではいったい誰が俺を救ってくれたのか、とマス・オーヤマは考える。実はそれは、彼への反感をむきだしにしていたはずの、他ならぬトシオだったのだ。夜の公園でトシオは言う。
「あんたは、日系人のぼくに、日本人として接してくれた。日系人の役に立ちたいというあんたの言葉が嘘でもいい。そう言ってくれたこと自体が、嬉しかったんだよ」
 トシオは、カウンターの中から飲み物にクスリが落とされるのを目撃、職を失う覚悟でマスターの眼を盗み、再び普通の飲み物とすりかえておいたのだ。
「人の善意に……日本人の血に触れた感動が、静かに私の心をひたしていった。その夜の勝利の喜びよりも大きく−−大山倍達・談」


力道山の「空手」チョップ

 トシオ少年との出会いを経てマス・オーヤマは、「祖国の役に立ちたい」とより強く願うようになり、"日系人無料招待デー"というイベントを企画した。だが、ここでもひと騒動が持ち上がってしまう。会場に詰めかけた日系人たちは当初、マス・オーヤマの空手に、遠藤幸吉の柔道に熱狂する。しかし、「ブルドッグ」の異名をとる白人レスラーが次のような台詞を叫んだ途端、皆、それまでの興奮が嘘であったかのように脅え、静まりかえってしまうのである。
「うるせえ! イエローモンキーどもめ」
 負け犬の遠吠えにしか思えない「ブルドッグ」の一言に、なぜ"同胞"日系人たちはこんなにも脅えてしまうのか。理解できずに呆然とするオーヤマに、事情通がこう説明する、「日本から移民した時代からよそ者として白人社会に圧迫され、太平洋戦争中の収容所暮らし……そして祖国日本の敗戦と、ぬきさしがたく身にしみこんだ白人コンプレックスのあらわれです」
 そこで、マス・オーヤマはその場で「ブルドッグ」に挑戦し、見事な勝利をおさめるのだが、ゴングが鳴る前、彼はこう自らに誓うのである。
「その劣等意織を根こそぎ吹き飛ばして、民族の誇り、新しい生命力にめざめてもらうのも大山空手の使命!」
 シーンとなっていた観衆は、マス・オーヤマの圧勝劇に再び元気を取り戻し、彼と遠藤の二人を胴上げする。
「われらのヒーローを胴上げだあっ」
「いつもわれわれを見下している白人をのばしてくれてありがとう」
「なんだか生き抜く元気が出てきたぞお!」
 あげく、孫娘をぜひ嫁にもらってほしいというお婆ちゃんが出てきたり、それを回りがひやかしたり、「日系人無料招待デー」は大成功に終わる。
 その後も"国辱レスラー"グレート東郷が改心し、正統派のレスラーに転向すべくマス・オーヤマに弟子入り志願するエピソードがあり(東郷は、"ミーだってヤマトダマシイを持ってるね!"など言う)、天下のFBIが格闘技の教官として彼を招き、日本の武道の第一人者として手厚く遇するエピソードがあるが、このように『空手バカ一代』アメリカ修行編は、空手家・大山倍達のサクセスストーリーであると同時に、彼の闘いを通して、戦争に敗れた国「日本」が、宿敵である「アメリカ」に雪辱を果たし、民族の誇りを取り戻すという構造も持っているのである。これは、彼が在日であることを考えると、実に奇妙だ。
 そこで改めて思い起こされるのが、同じく在日朝鮮人であった力道山こと金信洛(キム・シンナク)の闘いぶりである。戦勝国「鬼畜米英」の攻撃に耐えに耐え、ついに「堪忍袋の緒が切れて」、伝家の宝刀「空手チョップ」で成敗し、観客は敗戦のウサを晴らす。彼もまた、過剰なまでに「日本の心」を意識し、それを演じ続けた。
 日本の国技である相撲から出た力道山は、プロレスを開拓して「日本人」の英雄になった。日本の武遣界から疎外された大山倍達は、笹川良一が主宰する「全日空手道連盟」にはついに合流することないまま、「日本のカラテ」を世界に知らしめた。
 実は韓国版『空手バカ一代』である『大野望』の主人公・崔倍達(チェ・ペダル)が取り組むのは、空手ではなく、朝鮮の国技テコンドーである。大山はそれを知ったとき、「それは抵抗あるな」と言ったそうだ。あくまで日本の武道の土俵で、在日が「地上最強」になったことに意味があるのかもしれない。
 ともかく、『空手バカ一代』の「アメリカ」を「日本」に、「日系人」を「在日朝鮮・韓国人」に置き換えてみれば、これこそはまさに在日同胞が熱望してやまなかった物語である。だからといって、大山が闘い続けた敵とは、実は彼を疎外した日本そのものだったのだ−−とまでは言うつもりはない。しかし、少なくとも、青春期を大山、力道山、そして「殺しの軍団・柳川組」の柳川次郎という三人の在日ヒーローに囲まれて育った梶原一騎が、そのことをまるで意識しなかったはずが
ない。


「倍達」の意昧

 正直に言えば、今でもぼくは、彼に、より公な場で「自分は在日だ」と言って欲しかったとの思いがないではない。だが、そのいっぽうで、彼はゴッドハンドのオーヤマ、牛殺しの倍達でよかったのかもしれないとも思う。
『Number』誌のインタビューに答えて、本名は崔永宜だと認めた大山倍達は、さらにこう語っている。
「ペダルというのは倍達の韓国読みで、高貴な意味があるらしい。大山倍達というのは父がつけた名だ」
 たしかに、「倍達(ペダル)」という名は・朝鮮民族にとって非常に由緒のある名前である。ぼくがふだん使っている天理大学編纂の『現代朝鮮語辞典』でひいてみると、倍達とは、「朝鮮の上古時代の称号」となっている。つまり日本における「ヤマト」などのように、朝鮮の国家・民族そのものを、誇りをこめて言うときに用いられてきた言葉なのである。
 さらに遡れば、朝鮮には「檀君紀元」という建国神話(日本で言えば、『古事記』『日本書記』にあたろうか)があるが、すでにこの中にペダルという言葉は出現している。
 ファヌングという神が、どうしても人間になりたいと願い、地上−−朝鮮の大地に降りてきて、百日間の試練を課される。その試練の二十一日目にファヌングは人間となることが許され、民族の始祖となる。彼がもうけた子供が古代朝鮮の最初の王となる檀君である。朝鮮では檀君の生年から、民族独自の紀元を数える(ちなみに、今年一九九四年は檀君紀元四千三百二十七年になる)のだが、檀君の檀の字、その木へんは"パクタル・ナム。という木のことであり(白樺科の樹木らしい)、そのパクタルが時代とともに音が変化して、ペダルとなったのである。
 つまり、大山倍達自身は自分が朝鮮民族であることを隠していたわけではなかったし、世界に知れ渡った彼の名前そのものが、その出自を、衿持とともに表現していたのだ。
 ともかく、「空手」という東洋の武道を世界に広めた男は、朝鮮民族の出身だった。それはそれで充分にすばらしいことだったと言えるだろう。「日本の大山」でも「韓国(朝鮮)の崔」でもなく「世界のマス・オーヤマ」になったのだから。
 さようなら、空手バカ一代。
 在日少年に希望を与えてくれた男−−。
(文中敬称略)
posted by KarateKid at 01:40| Comment(7) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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