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2006年06月17日

大山倍達未亡人・独占取材! 極真会館の跡目争いとゴッドハンドの生涯(前編) (宝島30 94年9月号)

大山倍達死後、その遺言が偽造されたものだと訴える遺族たち。
これまで頑なに沈黙を守ってきた智弥子未亡人が
巷間流布されるさまざまな噂に対して、はじめてその重い口を開いた!

石山永憲


 六月二十六日、雨のそぼ蹄る青山葬儀場を訪れた弔問客の人々は、異様な光景を目にすることとなった。葬儀場の庭に駐車した車を、約百名の屈強な若者が取り囲み、その人垣の中に骨箱と位牌を抱えた喪服姿の女性が一人、雨に打たれながら立っていた。
 この日、青山葬儀場で行なわれていたのは、四月二十六日にこの世を去った大山倍達の、極真会館主催による全館葬だった。そして骨箱を抱えていた二人の女性は、大山倍達の次女の恵喜さんと、三女の喜久子さんである。その二人が雨に打たれながら抱えていたのは、本来ならば葬儀場の祭壇に置かれているはずの大山借達の遺骨だった。世界各国から約六千名の弔問客が集まった実の父の葬儀で、なぜ二人の娘はこのような異常とも言える行動をとらなければならなかったのだろうか。


偽造された遺言状?

 創始者大山倍達を失った今、極真会館は後継を巡るお家騒動に揺れている。それが露見したのは六月二十日に、恵喜さんと喜久子さんがマスコミ関係者を集めて、抜き打ちで行なった記者会見からである。二人の娘は父、大山倍達が残したとされる遺言の作成過程に、あまりに疑わしい点が多く、偽造の可能性が高いことから、遺言そのものの無効を訴えた。この記者会見はテレビ、雑誌、スポーツ紙などに取り上げられ、一気に極真会館の内紛が露見することとなる。
「確かに記者会見を開いたり、父の葬儀の場であんなことをやったことで、たくさんの人たちに迷惑をかけてしまったのは申し訳ないと思っています。でも、あそこまでやらないと、今の私たちの立場や考えは、誰にもわかってもらえないと思ったんです」
 大山倍達が死の一週間前に口述筆記させたとされる遺言には、極真会館の今後の運営、自分の後継(元世界王者の松井章圭を指名)、家族に対するケア、そして追記というかたちで、韓国と北海道にいる自分の愛人と子供に対するケアのことが記されている。しかしその遺言には肝心の本人の署名がない。この件については極真全館の山田雅俊・東京城西支部長は次のようなコメントを出している。
「遺言を作成した時点て総裁はかなり衰弱しておられましたので、緊急遺言ということでこういう形式のものになりました。こういう形式の遺言は法律上も認められております」
 それに対して大山倍達未亡人の智弥子さんは、憤慨しながらこう答える。
「前日まで主人は自分でトイレにも行っていたんですよ。自分の名前すらサインできなかったということは絶対にありません」
 ちなみに現在この遺言は、家庭裁判所の審査待ちである。ただし遺族側によれば、かなり偽造の可能性の高い遺言でも、家裁の審査はパスしてしまうということで、審査が下った後に、改めて遺言の内容について民事訴訟を起こす予定だという。
 このように極真会館と大山家は泥沼状態とも言える対立を続けているが、この対立を巡って現在、周囲ではさまざまな憶測や噂が乱れ飛んでいる。
 そのいくつかを例にあげれば、関西の政財界の大物がバックにからんでいる、背後で暴力団関係者が暗躍している、どうも統一協会も関係しているらしい……。
 これらの噂の中には、おそらくまったく見当違いのものもあるだろう。極真全館にとっても遺族側にとっても、このような噂がひとり歩きし、増幅していくことこそがもっとも憂慮すべきことではないだろうか。そこで本稿では、従来されてきた報道よりもいま一歩踏み込んだかたちでの取材を行ない、これらの噂の真否を検証していきたいと思う。
 さて、今回の騒動について詳しく語る前に、あらためて大山倍達という人間の一生を検証しておく必要がある。それも、敢えて今まで語られなかった部分にまで光を当てていくことにしよう。それを避けていては、今回の騒動や現在流れている噂の数々の底辺にあるものが解明できないからだ。


毛利松平と柳川次郎

 今回の取材にあたって、大山倍達の人生の最大の理解者であり、また証人でもありながら、夫の死による心労で今までマスコミに対して沈黙を守っていた智弥子夫人が、初めてインタビューに応じてくれた。
 俳優の藤巻潤の実の姉である智弥子さんが大山借達と結婚したのは、戦後の混乱期、一九四六年のこと。空手修行のための山籠りや海外武者修行でほとんど家に戻らぬ夫の留守を守りつつ、三人の娘を育て上げた。夫の収入がなかった時期には、質屋通いをしながら生計を支えたこともあるという。
「今の本部道場ができた頃、ヤクザみたいな人がいっぱい出入りしてたんですよ。母はこれではいけないというんで、自分一人でそういう人たちをほうき片手に、みんな追い出しちゃったそうです」(三女・喜久子さん)
 智弥子夫人の口から語られる大山借達の生涯は、ある意昧では脚色や創作の多かったという『空手バカ一代』(梶原一騎原作)以上にドラマチックなものだった。
「本当に大山倍達と暮らした五十年間は毎日、いや一秒一秒がドラマでした。本当に凄い人でしたよ。ヤクザかといったらそれは違う。かといって生真面目な人間かといったらそれも当たらない。大山倍達をただの空手バカという人もいますけど、私は決してそうは思いません」
 大山倍達が一代で築き上げた極真会館は、国内だけでなく全世界に支部を持ち、門下生の数は今や累積で一千二百万人という膨大な数に達したという。夫人の語るとおり、大山倍達が単なる空手バカであれば、牛を素手で殺す超人的な強さを身につけることはできても、極真会館をここまで巨大な組織に築き上げることはできなかっただろう。
 大山倍達には極真会館を築き上げていく過程で、決して忘れることのできない二人の協力者がいた。
 一人は極真会館会長を長く務めた元衆議院議員の毛利松平。そしてもう一人は、山口組の中でももっとも戦闘的な組織と言われた柳川組組長として、戦後のヤクザ世界にその名を残した柳川次郎(晩年は魏志と改名)である。
「毛利先生との出会いなんか本当にドラマでしたよ。戦後間もない頃に、毛利先生がビジネスのトラブルに巻き込まれて、ある所に監禁されてしまったんですよ。そのまま放っておけばリンチされて殺されてしまうところだったらしいんです。その場に主人が用心棒みたいな感じでいたんです。でも毛利先生が命が危ないにもかかわらず、とても堂々としていらしたんで、『こういう人を殺してしまっては日本のためにならない』と思って、主人と二人きりになった時に逃がしてあげたんで
すね。主人は最後まで自分の名前は名乗らなかったんですが、毛利先生は他の人から主人が『大山』と呼ばれていたのを覚えていたそうです」
 この時に命を救われたことがきっかけとなり、毛利松平は極真会館会長(一九六四年の発足当初は副会長)として、大山倍達を生涯後援していくことになる。現在の本部道場も、毛利氏の紹介による銀行の融資がなければ、あわや人手に渡る一歩手前だったという。
 さてもう一人の協力者である柳川次郎との出全いは、何人かの証言や大山倍達の著書にある記述から、終戦直後のことだったようだが、今回の取材でははっきりした時期やきっかけをつかむことはできなかった。ただ、柳川次郎は一九四六年六月に強盗容疑で逮捕され、その後六年間服役しているため、出会ったのはそれ以前ということになる。
 柳川次郎こと梁元錫が同胞の仲間とともに、神戸三宮の焼け跡で食うために喧嘩三昧の日々を送っていた頃、大山倍達こと崔永宜もまた空手の道を志しつつも、日々の糧を得るためにさまざまなことに手を染めていた。腕っぷしを買われて、ヤクザの用心棒をやったことも少なからずあったという。
 そんな中で故国に帰還することなく、日本で"在日"。として生きていくことを選んだ二人は出会い、生涯を通じての友としての契りを結ぶことになる。
 大山倍達が自らの肉体の強さを極めることによって、日本社会の中でのし上がっていこうとしたのに対し、柳川次郎は"極道"として、非合法の世界で生き抜こうとした。
 対照的に見える両者の生きざまではあるが、ともに人生を生き抜く上でのテーマは力だった。ある意味では大山倍達と柳川次郎は、戦後の日本社会において、生産手段も教育機会も奪われ、差別の中で生き抜かねばならなかった"在日"の、合わせ鏡のような在存であったと言えるのではないだろうか。
 柳川次郎は一九六九年に柳川組を解散した後、ヤクザ世界から引退して日韓友愛親善会を設立し、民間外交の旗手として活耀した。その時期から晩年まで特別相談役として極真会館に関わり、海外支部設立の際には少なからぬ助力を盟友大山倍達に与えたという。


田中清玄との出会い

 ここに昨年十月に開催された、極真会館主催の第二十五回全日本空手道選手権大会のパンフレットがある。このパンフレットを見て驚かされるのは、大山倍達と極真会館の驚くべき人脈の広さである。
 この時にはすでに毛利松平と柳川次郎は他界していたが、彼らの生前に劣らぬ多彩な面々が顧問、相談役に名前を連ねている。
 政界からは会長には福田赳夫。顧問に大内啓伍、海部俊樹、倉成正。相談役にも亀井静香、河野洋平、中山正輝、三塚博といった大物政治家が、呉越同舟といった感じでずらりと並んでいる。
 この年の大会には名前こそないものの、極真会舘の過去の歴史を紐解くと、歴代の自民党の大物政治家が総登場といった感がある。まず極真会館創立時の会長が佐藤栄作。顧問には三木武夫、園田直、竹下登、安倍晋太郎といった自民党の総理大臣経験者、派閥の領袖クラスの面々が並び、相談役にはあの田中角栄も名を連ねたこともある。
 確かにスポーツの大会に、このようなかたちで政治家が役員として名前を連ねることは決して珍しいことではない。しかし、文部省管轄下にある体育協全に所属していない(体協には寸止め系の全日本空手道連盟が所属)極真会館の大会に、これだけの政治家が名前を連ねるのは不可解といえば不可解である。
 この疑問については、大山倍達の古い弟子の一人が答えてくれた。
「空手の道場、とくに極真のように町道場を母体としている場合、けっこう有力な集票母体になるんですよ。道場生には二十代前半の、本来なら浮動票となる年代の人間が多い。しかも上下関係がしっかりしているから、ほんの少しの運動でかなり確実な票を期待できるというわけです。極真の国内で最初の支部というのは愛媛支部だったんですけど、愛媛というのは毛利先生の選挙区なんですよね。ですからそこに支部長として最初に派遣された人は、支部の運営だけでなく、毛利先生の身辺警護と選挙運動の手伝いもするよう、大山先生から命令を受けていたそうです」
 また政治家以外では戦後の政財界に多大な影響力を持った田中清玄も、ここ十年は極真会館の顧問、相談役として名前を連ねていた。田中清玄が表立って極真会館に関わったのは比効的最近だが、大山倍達との付き合いはかなり古くからのものだった。
「私と主人が結婚したのは、昭和二十一年の六月のことでした。式は、井の頭公園でお弟子さんの前でボートに乗ってそれで終わり(笑)。その後、主人と一緒に田中(清玄)先生のところに結婚のご報告に行ったんです。それ以前から主人は田中先生にはずいぶんお世話になっていたみたいですね。その時に田中先生はこうおっしゃったんです。『大山さん、結婚すると言っても、どこに住んで何をやって食べさせるんだ。そんなこともちゃんとできないで、人の大事なお嬢さんを貰いましたと言っても、人生は通らないよ。君がちゃんと生活できるようになるまでは、奥さんは私たち夫婦が預かっておきます。家庭を持てる状態になったら、いつでも迎えにいらっしゃい』で、それから一年近く田中先生のところで坊ちゃんのお守りのようなことをしながら、お世話になったんです」
 毛利松平、柳川次郎、そして田中清玄。いずれも大山倍達の生涯を通じてのよき理解者であったが、若き日に彼らの知遇を得ていたというあたりが、彼の持つ運命の強さを感じさせる。
 そんな致々の出全いを五十年近く側で見てきた智弥子夫人は、当時を回想しながらこのように語った。
「主人は本当に並の星の下に生まれた人じゃなかったですね。あんな破天荒な行き方をしたのに、理解して応援してくれる人はたくさんいましたからね」


統一教会に関する噂

 大山倍達が統一協会の信者であるという噂は、ずいぶん前に耳にしたことがある。
 実際、統一協金とは不可分の存在である世界日報は、古くからの全日本大会のスポンサーであるし、一九八四年に行なわれた第三回世界大会には、日本統一協全会長の久保木脩己が、大全特別相談役として副委貝長の席に座り、顔写真入りでパンフレットにメッセージを寄せたこともある。
 その後の大会では役員から久保木の名前こそ消えたものの、世界日報は現在でも極真会館の有力なスポンサーの一つとして名前を連ねている。
 極真全館、大山倍達と統一協会の繁がりは古く、時期的には第一回全日本大会が行なわれた一九六九年より少し前から付き合いが始まったようだ。両者の橋渡し役となったのは、現在は極真を離れアメリカで他流派を興しているO兄弟である。O兄弟の父親は当時の日本統一協会にあって、金銭の出入りをかなり自由に任されるほどの大物で、日本におけるコネクションが欲しかった統一協会と、スポンサー不足に悩んでいた極真全館との利害が一致し、ある種の協力関係が生まれた。
 では実際に大山倍達が信者だったのかという問いに対しては、智弥子未亡人は言下に否定した。
「確かに主人は統一協全に何人か友人がいました。久保木さんがよくうちに訪ねてきた時期もあります。まあ、どっちが呼んでたのかは知りませんけどね。最初はおだてられて協力してたんじゃないですかね。でも、主人が信者でなかったことは断言できますね。もし本当に主人が信者だったのなら、協会からお金を借りるなりして、新しい本部の建物だってもっと早く建っていたはずですよ。それに主人がお世話になっていて、こんなことを言うのも何ですが、うちは私も娘もみんな統一
協会が嫌いでしたから」
 智弥子未亡人はこんなエピソードも語ってくれた。
「何年か前に協会の方が会館に来て、主人に壷を持たせて写真を撮っていったことがあったんですよ。そしたらその写真が霊感商法みたいなことをやっている会社の広告に使われてしまって。『大山総裁は統一協会の信者なんですか』という電話が会館に何本もかかってきて。あの時は本当に怒ってらっしゃいましたよ。そんなこともあって、ここ最近はあまり協会の方とのお付き合いも少なくなっていたようてすね」
 しかし、昨年十月に行なわれた全日本大会のパンフレットを見る限りでは、極真会館と統一協会の関係はいまだに現在進行形である。後援には世界日報の名前があり、相談役の中にも日本統一協全の実力者である、梶栗玄太郎の名前が見える。
 ある意味ではこれまで付かず離れずの関係を続けてきた極真会館と統一協会だが、大山倍達の死によってそのパワーバランスに狂いが生じつつあるという説もある。これをきっかけに関係は薄れていくのか、それとも大山倍達存命中には考えられなかったような介入を許すのか。取材を行なった何人かの関係者からは、後者の事態を危惧する声が圧倒的に多かった。


韓国と日本

「主人は国籍なんて自分の好きなように、生きやすいように選べばいい。今は日本に住んで、日本の人たちにお世話になって、生活の地盤もこっちにある。だから日本を大事にするのは当たり前だ。また、韓国の故郷だって自分が生まれ育った場所だから、さびれれば淋しいし、切れないものはあるっておしゃっ
てましたよ」
 その著書を読んでも、大山倍達は日本人以上に日本的な精神を大事にした人間だった。その一方で、晩年まで自分の故国である韓国から来た人間には親身になって世話を続けたという。
「本当に大変でしたよ。頼まれれば嫌と言えない人だったので、いつも家族以外の人がうちに寝泊まりしてましたからね。日本人の人もいましたけど、やっばり韓国の人が多かったですよ。あちらから絵やバレエを習いに来た若い人たちをうちでお世話して」
 大山倍達は一九六八年に日本国籍に帰化している。智弥子夫人によれば自分から望んでのことではなかったようだ。
「法人認可や土地登記の問題で帰化しないと面倒なことが多いから、頼むから大山君、帰化してくれと毛利先生に頼まれたんですよ」(智弥子夫人)
 日本人としての大山倍達。韓国人としての崔永宜。一人の人格の中に存在しながら、いずれも人一倍国を愛した。だからこそ当人の内面には少なからの葛藤があったことが想像できる。
「父はよく私たちに言ってました。『君たちは日本人なんだからね。日本人の心を忘れてはいけないよ』って。そのくせ怒った時なんか急に韓国語で怒鳴りだしたりして。父が韓国人だったということを聞いたのは、私が十八歳くらいの時ですね、道を歩いていた時に急に『お前、知ってるのか』って。私は小学校からインターナショナル・スクールに通ってましたから、そんなことは大したことじゃないと思ってたんで、『知ってるよ』って言ったら黙り込んじゃいましたけどね」(三女の喜久子さん)
 大山倍達は四年に一度開催される世界大会の際には、代表選手を前にして「日本が優勝できなければ、君たちは腹を切れ」という訓示を行なうのが常だった。ある意味では過剰なまでの国粋主義者であったと言える。
 その一方では、自分の同胞である人間には、やはり特別な感情を抱くことが多かったようだ。実際、大山倍達が遺言で後継者に指名したとされる人物が、韓国籍の松井章圭という発表がされた時にも、「やはり最後は同じ血の人間を選んだか」という感想を抱いた関係者も少なからずいたという。
 生涯韓国と日本という二つの祖国を愛し続けた大山倍達。しかしいずれの祖国への愛も、あまりに大きすざたがゆえに、大山倍達はある意味で、最後までボヘミアンとしての生涯を全うせざるをえなかったように思える。


新興宗教の教祖

 大山倍達という人間をここまでいくつかの角度から眺めてきたが、私自身が感じたことは、彼が新興宗教の教祖に非常に近い素養を持った人間であるということだ。
 実戦空手という概念は、宗教で言えば現世利益に近いものである。新興宗教の多くが、あるかないか分からのあの世のことよりも、現世での利益をアピールしたことによって、数多くの信者を獲得していった。同じように大山倍達は、実際にケンカに強くなるということを入口に、全世界に一千二百万人の弟子を持つに至った。
 現世利益といえば、以前に大山倍達を取材したライターがこんな話をしてくれた。
「私が取材した時には、白帯の稽古の指導を大山さんがやっていたんですけど、稽古中に延々と言い続けているんですよ。『強くなりなさいよ、強くなったら綺麗な彼女ができるからね。綺麗な奥さんが来るからね』って。約二時間の間、それを言い続けていたんです」
 また、生前に大山倍達と付き合いのあった古い知人はこんな証言をしてくれた。
「大山さんには怖いもんなんかないでしょうって聞いたことがあるんですよ。そしたらあるよって。何と答えたと思いますか。食えないことがいちばん怖いよって。大山さんはしみじみした表惰でこう答えたんですよ」
 劇画に登場する大山倍達は、あくまでストイックな武道家として描かれていた。しかし現実の大山倍達はあくまで人間的だ。戦後間もない時には生きるために非合法なことにも手を出し、組織を運営するためには多少ヤバイ宗教とも付き合う。
 大山倍達が生涯の師としたのは、宮本武蔵だった。しかし大山倍達は知っていたのではないだろうか。あれだけ武術を極めた武蔵が目標としていたことは、あくまで好条件での仕官だったことを。そしてついに生涯満足のいく仕官の口には就けなかったことを。
 人は大山倍達のことを"ゴッドハンド"と呼んだ。武道、格闘技の世界においては、これほどのカリスマ性を持ち、神に近い存在として語られる人間は、大山倍達をもって最後となるだろう。
 しかし、現実の大山倍達はあくまて人間的すぎるほど人間的で、それゆえに周囲の人間を引きつけ続けた人間だったのだ。そしてそのあまりに広範囲な人間関係が、今回の騒動の伏線となったのだった。(つづく)
posted by KarateKid at 01:42| Comment(6) | TrackBack(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
キミー最初の方のわたしの名前ねー!
借達になっとるよ說、
倍達に訂正したまえ。
わかった?
Posted by ペタス at 2006年10月24日 05:05
はじめまして!
当方、戦後史についてのブログを書いているもの
ですが、大山倍達と田中清玄について
貴ブログを参考リンクにさせていただきました。
ご了承いただければ幸いです。
Posted by k_guncontrol at 2008年03月21日 17:34
ぼく、ユダヤ人。
Posted by 悪魔君 at 2009年01月16日 02:31
大山倍達は朝鮮人だったのか…
がっかり。

松井章圭も朝鮮人か…

石黒康之も当然朝鮮人だな…

なぜ、大っ嫌いな日本にいるんだ?
朝鮮に帰れよ。日本に必要とされてないぞ、お前らチョンコーは。

Posted by at 2011年11月11日 01:36
ちょうど、故田岡満さんの「魂世紀 神界からの波動」という本を読んだ後でその本の中にも山口組三代目の田岡一雄氏と田中清玄氏のつながりも書かれてあり、驚きです。

極真空手のように田岡一雄氏が大きくした山口組という組織も世間で思われている暴力団としての組織と違う一面がその本を読むと書かれています。

見えない世界を垣間見た私はそのような大者達が神界から日本や世界を変えようと手伝ってくれているような氣がします。
Posted by 愛魂ボーイ? at 2013年06月21日 13:57
ちょうど、故田岡満さんの「魂世紀 神界からの波動」という本を読んだ後でその本の中にも山口組三代目の田岡一雄氏と田中清玄氏のつながりも書かれてあり、驚きです。

極真空手のように田岡一雄氏が大きくした山口組という組織も世間で思われている暴力団としての組織と違う一面がその本を読むと書かれています。

見えない世界を垣間見た私はそのような大者達が神界から日本や世界を変えようと手伝ってくれているような氣がします。
Posted by 愛魂ボーイ? at 2013年06月21日 13:58
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